江戸の漢詩
時折、江戸漢詩集を開くことがある。と書くと如何にも教養ありげに聞えるが、なにそんなにムツかしい五言絶句ではない。漢字が読めるなら中学生でも一読、理解できるような詩なのである。
屁臭
一夕飲燗曝(一夕 燗曝《かんざまし》を飲みてより)
便為腹張客(便《すなわ》ち 腹張りの客となれり)
不知透屁音(透屁《すかしつぺ》の音を知らざりしか)
但有遺矢跡(但し遺矢《うんこ》の跡あり)
有名な蜀山人の詩である。
次の詩など愛誦して飽きることがない。滅方海銅脈先生の作である。
低《た》れんと欲して、雪隠《せつちん》に 臨みたれば
雪隠の中には 人、有りけり
咳払いすれども、尚、未だ出でざれば
幾度か 吾は身震いしたる
(欲低臨雪隠
雪隠中有人
咳払尚未出
幾度吾身震)
愚仏の作に次のようなものもある。
屁を放って行燈を滅すの図に讃す
[#ここから2字下げ]
|諷諷※[#「馬+芻」、unicode9a36]※[#「馬+芻」、unicode9a36]と屁穴開けば
見物は鼻を撮《つま》んで吹き出して哈《わら》う
腹は減り、息は弱り、甚だ滅し難ければ
明晩は十分に芋を喰って来んと
[#ここで字下げ終わり]
これらの漢詩の作者について説明すれば蜀山人は言うまでもなく大田覃のことであり、銅脈先生は程朱学派の畠中観斎のことであるが、むかしの人はやはり風流だったから「下がかった」話も決して嫌いではなかったのであろう。
今あげた漢詩などさほどムツかしくはないが、次の詩などは、ひょっとすると今年の国立大学入試に出そうな問題だ。読者のなかに受験生がおられるなら、これによって、おのが実力をためされるがいい。
椀椀椀椀亦椀椀
亦亦椀椀又椀椀
夜暗何疋頓不分
始終只聞椀椀椀
読んで解釈できましたかな。これも愚仏の作。題して犬咬合《いぬのかみあい》という。
ワンワンワンワン、またワンワン
またまたワンワンまたワンワン
夜は暗くして何|疋《びき》か頓と分らず
始終、只聞くワンワンワンのみを
これがわからぬようでは今年も浪人になるやもしれぬ。
蚤
甫伊甫伊又甫伊
縫目細処歩骨折
段段廻手漸捕来
生殺得只是糸屑
しかし次のような狂詩を読むと、私は思わずこの詩の下に絵を描いてくださいと清水崑先生に言いたくなる。
類《たぐい》も無い貧乏人なれど
其の癖 仕事は厭《きらい》なり
後悔は先に立たねば
年寄って 今は残念
私がこの詩を読んで自分と少し違うのは最初の一行だけで(私とて貧乏だが、無類とまではいかない)あとの三行は、わが現在の心境をそのままあらわしているような気がするからだ。
右の漢詩はすべて狐狸庵の作ではない。岩波の日本古典文学大系『五山文学集、江戸漢詩集』にちゃんと掲載されている。