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ぐうたら人間学11
日期:2020-10-31 19:31  点击:253
 京都の娘
 
 この二、三年、正月を私は家族をつれて京都で送るようになった。歳末の錦小路を歩きながら、東京の市場でも見られない食べものを見てまわるのも楽しいし、おケラ参りをしたあと、火のついた縄をクルクルまわしながら戻ってくる男女の姿を見物するのも京都ならでは、と思うからだ。もっとも名所旧跡や寺にはほとんど行かない。一度、正月元旦に、今日こそは静かだろうと思って嵯峨野に出かけたら、女性週刊誌をかかえた女の子やその恋人らしい男の子がゾロゾロと歩いており、自家用車がそのあとを行列して徐行している始末で、すっかりゲンナリしてしまったからだ。
 京都のKホテルで司馬さんに偶然会った。この知識ゆたかな作家はまた話術の名人で、次から次へと京都の話、京都人の話をしてくださるから飽きることがない。
 年末、最後の日に新京極に出て、高倉健のヤクザ映画と『華麗なる大泥棒』というベルモンド主演の映画をハシゴで見てホテルに戻ったらフロントに、年越そばと小さな名刺がおいてあった。
 名刺には「わたしはファンの一人ですが、この年越そばはオイシイから、たべてください」
 可愛い文字で書いてあった。中学生の女の子のような字だった。私はこれでも意外と中学生に読者を持っていて、時々、泣きたくなるような手紙をもらうことがある。私が病気をしたと誰かに聞いたから自分の家に来い、自分の家は空気もいいし、水もいいから療養に来てくださいなどという手紙をもらうと、もう何ともいえなく嬉しくなってしまう。
 もっとも時々、
「わたしは、あなたについて歌を習いたいのです」
 という葉書がまい込んでくる。始めはフシギ、キテレツと思っていたが、それは私に歌ごころが全くなくて、自分でポッポッポを風呂場で歌っているつもりなのに、家人には豚が悲鳴をあげているとしか聞えないというほどの悪声だからだ。
 だが、そのうち事情がわかってきた。私に歌を習いたいと書いてきた地方の少女たちはどうやら、遠藤実氏と私とをまちがえていたらしいのだ。
 手紙や葉書をくれるだけではなく、家にたずねてくる中学生もいる。
「ぼく、小説家になりたいんです」
 と可愛い男の子が勝手口で家人に言っている。
「弟子にしてもらいたいんです」
 家人は懸命に首をふって、小説家なんか実にクダらんからおよしなさいと言っている。
「そうですか。そんなら、よそうかなア」
 と中学生。
「そうなさいよ。そのほうが、いいわ」
「そんなら、ぼく、漫画家になります」
 二階で聞き耳をたてていた私は思わずそのケロリとした言い方に吹き出してしまう。
 さて、その年越そばにつけられた名刺を見て、私は女子中学生かなあ、と思い、
「礼を言わなくちゃ、いけないな」
 と名刺の電話番号に電話をかけてみた。
 すると受話器に出てきたのは、年頃のお嬢さんだった。クックッと笑っている。私は嬉しくなり、正月三日までいますから、一度、遊びにいらっしゃいと言った。
 ところでそのお嬢さんが正月二日の夜、遊びにきてホテルのバーで、京都の話を色々してくれたのだが、その話で印象に残ったのを一つ、二つ。
 京都に私が住みたいと呟くと、彼女は京都に住むには心得がいるという。
 たとえば、京都の家をたずねて、「どうぞあがっておくれやす」と言われてノコノコ、あがってはいけない。あとで、あの人は礼儀知らずだと悪口を言われる。「どうぞあがっておくれやす」が三度くりかえされなければあがってはいけない。まして「おぶづけでも食べていっておくれやす」と言われたら、「いえ、用があります」と断らなくてはいけない。
 玄関で座蒲団を持ってこられて腰かけて下さいと言われても、座蒲団のおき具合をじっと見てから、その半分が土間に垂れているようなら、腰かけたらアキまへん。もし腰かければあとで悪口を言われますわ。京都の娘は男から、うまいこと言われてもその二十パーセントしか信じませんねん。だから、先生がわたしのこと、可愛い娘だなあと言いはっても、二十パーセントしか信じませんねん。
 私はその話を聞きながら、このお嬢さんのサービス精神に一寸、感心した。そして、京都というところは、やはり一度、住んでみたいところであるなあ、とつくづく思った。
 私は「どうぞあがって、おくれやす」と言ってノコノコ、あがるような神経は好きでない。そして、あがった者を正直とも思わないし、あとでその当人の悪口を言うような京都人が裏表あるとはつゆ考えない。こういう挨拶はいわば芸道でいう「約束ごと」であって、お茶の席に出ても、ああ、こんなことバカらし、と思うような作法が次々と行われるが、その作法が茶席で必要なように、会話にも「約束ごと」があって一向に差支えないと思うからである。「どうぞあがって、おくれやす」と三度、言わないうちにノコノコあがる人間は「約束ごと」を守らなかったから、礼儀知らずと言われても仕方がないのである。「まあ、腰かけておくれやす」そういって座蒲団をもってくるのは形である。向うが形をみせたのに、その形を無視して、ドシッと腰かけるのは作法はずれである。
 そういう形は偽善的だとか、真心にかけているというのは非常に狭い見方なのであって、たとえば外国でディナー・パーティの招待状に「七時にお出でください」と書いてあったから七時にベルを押せば、思いやりのない客と考えられる「約束ごと」とよく似ている。七時においでくださいと招待状に書いてあれば七時十分か、十五分にベルを押したほうがいいのは、そこの主人や夫人の身支度に余裕を多少、与えてやる思いやりが、あるからである。
「おぶづけでも、食べていっておくれやす」
 と昼近く、主人側が言うのは「約束ごと」であって、その約束ごとの作法にこちらは相手を思いやり、
「この次、ごちそうになります」
 と言うのは、まずまず当然であろう。京都の言いまわしはなかなか面白い。そういう言いまわしは決して偽善ではないのだから京都人は今後もまもり続けてほしいと思う。

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