天下を変えたマヌケ男
京都ホテルから河原町に一寸、歩いた方向に織田信長公霊廟と本能寺がある。にぎやかな通りだからつい見すごしてしまうような小さな寺であるが、この本能寺の場所はもちろん、かつて信長が光秀のクーデターにあって自決した旧本能寺と同じ場所にあるのではない。
私は時々、考えるのだがもしあの光秀のクーデターがなかったなら、秀吉はどういう一生を送ったであろうか。
司馬さんにそれをホテルでたずねてみると、
「いや、その場合は秀吉は生涯、信長の下でモミ手をしながら送ったでしょうね。信長という人は実に部下を休息させずコキつかった人で、あの機会がなければ秀吉も東奔西走で疲れ果ててうだつがあがらなかったでしょう」
という意味の御返事をしてくださった。
こんなことを書くのはたいていの人間の一生は多かれ、少なかれ、信長型、秀吉型、家康型の三つにわかれるようで、それぞれの胸に手をあててみると、なるほどこれら三人のように天下をとるなどという大規模なことは成就できないが、運の切り開きかたという点ではこの三人のどれかに当てはまるような気がすると思うからである。
棚からボタ餅に運が開けてきたのは秀吉が備中高松城の水攻めで城主、清水宗治の頑強な抵抗にあい、ほとほと閉口している矢先だった。突如として信長の死のニュースがもたらされたのである。それまでの秀吉とくると、信長という怖ろしい主君のために、おそらく自分が天下者となるなどという野心はあまり持っていなかったかもしれない。
彼とて戦国の武将であるから、そういう夢は持っただろうが、それはおそらく生涯、実現不可能の夢と自身でも知っていただろう。
ひともみで潰せると思った高松城は意外に手古摺った。手古摺ったが、ようやく秀吉は、もう大丈夫と思えた頃、信長に御出馬くださいとたのんでいる。これはあきらかに信長にたいするおベンチャラであり、また保守策でもあった。信長は意外と部下に嫉妬心がつよくて、部下が功をたてすぎると、時にはこれを叩く場合がある。秀吉はそれを心得ていたから高松城攻略の功を主君の御威勢によるものとしたかったのである。
その矢先、目の上のタンコブであった信長が死んだ。光秀、よくやってくれたと秀吉は言いたかったであろう。
ものの本によると、このニュースが秀吉の手に入ったのは、何と光秀が高松城を助けにきた吉川勢に自分のクーデターの成功を知らせ、同盟を求めるべく、送った使者が少しヌケていて、秀吉側の陣地にノコノコやってきたためである。
このマヌケ使者はおそらくその場で殺されたろうが、自分の失敗が、日本の歴史を変えたとは当人、死ぬまで気づかなかったろう。もしこの使者がちゃんと吉川の陣地に手紙をとどけていたならば、秀吉は急遽、姫路に引っかえして光秀と天王山で一戦をまじえる余裕もできず、天下は誰のものになったかわからぬからである。
私はこのマヌケ使者に何となく憐憫を感じる。三年前、このマヌケ使者のことを現場で思いたいため、わざわざ、倉敷市から近い、この高松城をたずねてみた。城はひろい水田にかこまれた小さな丘陵にその本丸跡を残すだけで、かつて周りを沼沢でかこまれた難攻不落の城塞をしのぶすべもなかったが、空にはトンビがヒョロ、ヒョロと鳴きながら飛び、秀吉やその部将の陣どった山々の上に青空が雲一つなかった。天下を知らずして変えたマヌケ使者の名も素姓もわからぬが、歴史のなかには無名のこういう人間がいるのだと思った。