狂った秀吉
ところで秀吉のことを考える時、私は彼を二重人物と思うことにしている。天下統一をする前の彼と、それ以後の彼とである。その二つの彼はなるほど、同一人物だが、頭の構造は全く違う。前の彼は正気で実に頭がよいが、後の彼は、はっきり言うと狂気の人である。光秀を攻略し、勝家を亡ぼし、家康と事をかまえて身を引き、小田原攻略にのりだす頃までの彼を調べると、実に運のよい男だが、その運を最大に利用する利口な人だとつくづく思う。
ところが朝鮮に兵をすすめた頃の秀吉はどうみても狂った老人である。狂った老人という言葉が悪ければフウテン老人である。少なくとも昔もっていた明敏な判断能力が欠如し、甚だしいウヌボレと甚だしい小児性がその行動に随所に見うけられる。
「はやばやと状給り候。御うれしく思いまいらせ候。よって、きつ、かめ、やす、つし、御気にちがい候よし、承り候。沙汰のかぎり候間、かかさまに御申し候て、四人を一つ縄にしばり候て、ととさまのそなたへ御出で候わん間、御おき候べく候。我ら参り候て、ことごとく、たたき殺し申すべく候、御ゆるし候まじく候、かしく」
これは秀吉が六歳の愛児、秀頼へあてた手紙だが、文面にある通り、きつ、かめ、やす、つしという四人の侍女が秀頼の気に入らなかったと聞いて、四人を一つ縄で縛るように母さまに言え。自分がそちらへ行くまでそうしておきなさい。きっと殺してしまうからと書いた文面である。
もちろん文字通り受けとるべきではないかもしれぬが、昔の秀吉なら自分のあと取りにこのような甘やかし方は決してしなかった筈である。甥などにも随分、立派な忠言を与えていた時もあったのである。おそらくこの手紙は彼の本心であり、本気で六歳の秀頼の意にそわなかった四人の侍女を処刑するつもりだったのだろう。
私はこの間、このフウテン老人が朝鮮出兵の時、大本営とした九州西端の名護屋城の跡と、その時の軍港となった呼子にぶらりと行ってみた。かつては二十数万の軍勢が出陣のために集まった呼子も名護屋も今は冬の弱い陽にてらされ、時折、漁船の出入りするわびしい町になっていたが、海だけは広く、悲しく拡がっていた。
この名護屋で秀吉はこの地方の名家だった波多三河守の妻に手を出そうとして、それに失敗すると、朝鮮で奮戦していた三河守の帰国上陸をゆるさず、彼を筑波山の麓にながし、その家をとりつぶしている。本心は別のところにあったのかも知れぬが、そのやり方が非人間的である。
人間、権力をもつとただでさえ思いあがる。だがそれ以上に秀吉の晩年は非常に小児的で、しかもイヤらしい。私は秀吉に関する本を読むたびに、晩年の彼と、中年時代の彼との頭がこうも違ってきたのかと驚くことが多い。おそらく病気にかかっていたのではないか。それを見ぬいていたのは小西行長で、小西行長という人の評価はもう少し高くあっていいと私は思っている。
秀吉のことを考えるたび、私は若かった頃、ある飲屋で仏文学者の渡辺一夫先生が教えてくださった言葉を思いだす。
「遠藤君、人間の一生で一番、生きるのがムツかしいのは老年です。若い時や壮年時代は失敗しても社会が許してくれます。まだ役にたつからです。しかし役にたたなくなり、顔も体も醜くなった老年には世間は許してくれません。その時、どう美しく生きるか、今から考えておきなさい」
先生はこう教えてくださったのである。