一人で見るテレビ
なにをしているの、と聞くと佐藤さんはテレビで『ガメラ対ギャオス』という子供映画を見ていると答えたが、流行作家の彼女が執筆にくたびれて、ぼんやり、そんなテレビ映画を見ている味気ない心境は、私にも想像できるような気がする。
正直いって、私も夜、一人で書斎でテレビと向きあっている自分に気がついて、何と面白くない人間だろうと我と我が身のことを考える時が多い。
階下の茶の間では家族たちが談笑している。その声が書斎にまで聞えてくるのだが、下におりて皆と話する気持に毛頭ならない。それに私が茶の間に入ると、今まで話をしていた家族が一瞬、口をつぐみ、白けた表情をするのもよくわかるからだ。
私ぐらいの年齢になると——その年齢の男性はたいてい同感だろうが——何となく家族から煙ったがられるものである。若い連中の話題にもついていけないし、女たちの話もよくわからない。何か口を出すと、頭が古いというような顔をするし、黙っていると協調的でないと思われる。
そのため、必然的に夜の食事がすむと私は自分の書斎にこもってしまう。書斎にこもって本を広げるが、必ずしも読んでいるわけではない。原稿用紙に向うが、必ずしも字を書くわけではない。自分用のテレビをつけてぼんやり見ているが、本気で見ているわけでもないのだ。
そんな一人ぽっちの自分の影が壁にうつっているのを見ると、つくづくこの年齢の男の孤独、わびしさ、そして醜さを感じるのである。
かつて若かった時、私は父親が食事のあと食堂から一人、自分の部屋に戻って碁盤に石をならべているのを見ると何とつまらない人だろうと思ったことが屡※[#二の字点、unicode303b]あった。もっと積極的に和気藹々と家族と食堂で談笑することができぬものかと思った。しかし正直な話、父が食堂にやってくると、私たちは何となく白けた気持になり、向うが話しかけても、こちらが話しかけても、何となく無理があるような感じがしたものだ。
父親の嫌な面を子が受けつぐという西洋の諺があるが、それから歳月を経てみると、かつて一人、自分の部屋で碁石をならべていた父の姿が、テレビを一人でみている私の姿に重なりあっているのである。
一人でそうやってポツンと書斎にすわっている時、私は妙なことを急に思いだす。
それは少年時代にたべたマクワウリの味である。あの黄色いマクワウリを夏休みよく冷やして、昼寝のあと、種を吐きだしながらたべた時のことを思いだすのである。
マクワウリはもう、ほとんど売っていない。果物屋や八百屋をさがしても、何とかメロンというそれに似たものを出してくれるが、それは決してマクワウリではない。
それから、油揚をあつく焼いて、お醤油をつけたもの、それをホカホカ御飯で食べた時のおいしさ。
あの頃の油揚はどうしてあんなに、うまかったのだろう。今の油揚の味とは絶対に、絶対にちがうのだ。
一人、夜、書斎にとじこもって、マクワウリや油揚のことを思いだしている。自分でも実に愚劣だと思う。そしてもし、階下の茶の間におりて、家族にもいい年をした男がわびしくこんなことを考えていると言ったら嘲笑されるだけだろう。
佐藤さんが『ガメラ対ギャオス』を夜、ぼんやり見ていた気持がよくわかる。