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ぐうたら人間学40
日期:2020-10-31 19:47  点击:333
 私と日本人
 
 ローマの町をぶらぶら、歩いていると向うから来た婦人が愛想よく笑いかけてきた。もちろん、その婦人はちゃんとした奥さんであることはその服装や品のいい化粧でわかる。
 向うが愛想よく笑いかけるので、こっちもほほえむ。
(ハテ、何処かで知っている人かな)
 と思いだそうとするが、思いだせない。
 こちらが微笑すると、向うが伊太利語でベラベラと話しかけてくる。何を言っておるのか、わからない。仕方なくこちらはたった一つ頼りの仏蘭西語で何を言っているのかとたずねると、向うが首をふる。
 そして、突然、自分の両指で自分の両眼をツリあげるようにして、
「マダム・バタフライ」
 と言ってニコニコッと彼女は笑った。
 私は始めて了解した。彼女は、あなたはお蝶夫人の国、日本から来られたのですね、と言っていたわけだ。
 会釈して歩きだしてから、しかし、なぜ西洋人は日本人や中国人は眼がツリあがっていると考えてるのだろうと思う。タレ眼のキンちゃんなどは外国に行って、日本人、必ずしも眼がツリ上っているのではないと主張してもらいたいものだ。
 外国——特にヨーロッパで作られたり描かれた東洋の人形や東洋人の顔を見たまえ。たいていがツリ眼である。これはちょうど日本の漫画に描かれた外人すべてが背高ノッポであるのと同じだろう。
 しかし、私はその時、自分が日本人であると向うに認められたことで満足をしていた。
 というのはこれまで、私は外国人から色々な国の人間に間違えられてきたからである。たとえばリヨン大学に留学していた頃、学生食堂である日、食事をしていると、同じ席についた仏蘭西人の学生が突然、
「君、モロッコの状勢は近頃、どうですか」とたずねてきた。
「え?」
 私は怪訝な気持で、
「よく知りませんよ。君のほうがよく御存知でしょう」
 と言うと、相手は、
「あれッ。あんた、モロッコ人でないですか」
 と言った。私が日本人だと言うと、彼は失礼しましたとあやまった。
 こんなことは度々あった。
 別に何国人に間ちがえられても構わないのだが巴里やリヨンには北アフリカのアルジェリア人やモロッコ人の行商人が多くいる。巴里である日、幼友だちの歌手の古沢淑子さんのアパートをたずねた時、生憎、古沢さんは留守で彼女と同居の仏蘭西人女性が扉をあけてくれた。私を見るや否や、この女性は扉を半分しめて、
「いりませんね、いりませんよ」
 と大声で叫んだ。
 その時の私は古ぼけたソフトをかぶり、古ぼけたバンドつきのレインコートを着ていたのである。この仏蘭西人の女性は私を見て、アルジェリア人の行商人とあきらかに間ちがったのであろう。
 こちらが何も言えぬうちにバタンと相手は扉をとじてしまった。
 私はスゴスゴと、そして憤懣やる方なくアパートを出て歩いていると、折よく向うから古沢淑子さんが戻ってこられるところだった。
「ひどい目にあいました」
 事情をきいた彼女は可笑しさを噛みころしながら私をつれて、ふたたびアパートに戻った。
 彼女の女友だちは恐縮し、笑いころげ、しきりにアヤまったが、私はふくれ面をしていた。
 
 リヨンの私の下宿は屋根裏部屋で冬はさむかった。
 自分でこう言うのも何だが、この頃、私はかなり勉強をした。大学に通うのと、食事に出かけるほかは、この屋根裏部屋で机にしがみついて本を読み、ノートを取っていた。
 もともと私は大学の研究室に残るつもりで渡仏してきたのだが、渡仏の船のなかで次第に心境の変化をきたし、小説を書きたいという気持になってきたのである。そういう意味で日本人もほとんどおらず、そして戦争犯罪国民である私にとって、リヨンの寒い、孤独な生活は小説家となるためにかなり役立ったような気がする。
 下宿の前は市電の停留所で、古ぼけた、時代遅れの電車が鈍い音をたてて停ったり、通過していった。近所に町工場があって、そこから絶えず、木材を切る音がきこえていた。
 市電の停留所の前にいつも一人の中年の女がたっていた。服装もみじめで、顔もうすよごれていた。
 昼近くになると、この女は姿をあらわし、夕暮になって、あたりが暗くなるまで、停留所の前のアパートの蔭にじっと立っている。
 ふしぎな女だと思っていたが、ある日、下宿の門番にきくと、あれは狂女だと教えてくれた。戦争で夫が兵隊にとられ、死んだのだが、まだ夫の死が信じられず、昔、新婚の頃そうしたように勤め帰りの夫の帰るのをあそこで待っているのだという。
 その頃、私はひどく孤独だったから、その話は心にしみた。夕暮、大学からの帰り、下宿の前まで戻ってくる時、彼女の姿を夕靄のなかに見つけると、何故か泪が出てくる時があった。
 リヨンには幾つかの本屋があったが、そのなかにマルキシズム関係の本ばかり専門に売っている店があった。
 私がその店にはじめて寄った時、店の主人が、
「あなたは中国人か。中国の革命はスバらしい。私の店では中国人学生には本の割引をする」
 と言った。私が仕方なく、気弱な笑いをうかべて黙っていると彼は本を割引してくれたが、その後、二、三回、その店に寄るたび、彼は中国人は素晴らしいとほめ、割引をしてくれた。彼は私を中国人と思い、私も割引してもらいたさに中国人になりすましていた。
 下宿から大学に行く途中の煙草屋に、かなり美しい中年の女がいた。私はその女の顔みたさにわざわざその煙草屋に寄ったのだが、ある日、その店で小肥りの酒やけをした彼女の亭主に出あった。
 この亭主は平生、店のほうは女房にまかせ、おのれは近所の一杯屋で仲間と床屋政談をやったり、リヨンをながれるローヌ河の岸でペタンクという球なげ遊びばかりしている怠け者だった。私はあんな美しい女がこんな男に惚れているのが前から癪だったのである。
「あんた、印度支那人《アンドシノワ》か」
 と彼は私に煙草を渡しながらきいた。日本人だと答えると彼はセセラ笑って、
「俺にとっては日本人も印度支那人も同じこと」
 と言った。
 下宿に戻ったが腹の虫がおさまらない。私はもう一度、彼の店に行って、煙草を買い、
「あなたはボッシュか」
 とたずねた。ボッシュとは仏蘭西人が独逸人をさげすんで言う言葉である。果せるかな、彼は眼をむいて、
「俺は仏蘭西人だ」
「ぼくにとっては仏蘭西人もボッシュも同じこと」
 そう言ってクルリと私は店を出た。
 
「日本にはどんな猛獣がいますか」
「日本には石の建物がありますか」
「日本に地下鉄があるって? ……信じられないなあ」
 今、仏蘭西に出かけた留学生が、田舎ならいざ知らず、巴里やそれに近い都市の住民にそんな質問を受けることはまず、あるまい。
 だが、一九五〇年、私たちがおそらく戦後の留学生グループとして最初に渡仏した頃は、そんな質問は仏蘭西人の友人から(しかもインテリの……)堂々と受けたのである。
 私は一九五〇年の夏、大学が開講するまで(向うでは大学は秋が新学期となる)ルーアンのRという建築家の家にあずけられていた。
 あずけられていたというと変だが、この建築家の家では家族を離れた外人留学生を親身になって世話をし、あずかりたいという考えを持っており、私はその夏休み、この家で二ヵ月を過すことになったのだ。
 戦後間もない頃だった。当時、ルーアンの町にいる日本人は私一人だけだった。(巴里でも十人ぐらいしか住んでいなかったと思う。今から見ると隔世の感がある)
 だから、そのR家の知人たちはこの家を訪問したり、お茶や食事によばれるたびに、紹介された私に、(礼儀上か、本当の好奇心か、区別はつかぬが)いつも同じような質問をするのだった。
「日本には虎が住んでいますか」
「日本人は紙と木で作った家に住んでいるそうだが、よく風に飛ばされないですね」
 私は後になって外務省ならびに大使館が怠慢だと怒りの随筆を書いたことがあるが、実際、今から二十年前までの仏蘭西の小学校の教科書にはリキシャに乗った男、花の傘をさした女、そして中国風か日本風かわからぬような家に住んでいる日本人の絵が堂々と載っており、それにたいして外務省と日本大使館は訂正も変更も要求していなかったのである。
 私はとにかく、懸命になって日本を説明しようとした。
 しかしだ。諸君。当時の私のまずい仏蘭西語で、障子をどう教えることができようか。
「日本人はベッドに寝ないで、床に寝るというが……」
 タタミというものがあるんですよッ、と私は叫びたかった。
 しかしタタミをどうわが仏蘭西語で説明していいのか。
「つまりです。一種の藁《わら》が床においてあります。その藁の上に寝るのです」
 汗だくで私がそう教える。
「ああ、わかった、わかった」
 御婦人たちに紳士がしたり顔で言う。
「仏蘭西の百姓屋の納屋のようなもんだな。ぼくらも、若い頃キャンプで、納屋の藁のなかに入って寝ましたが、あれ、なかなか、暖かいもんです」
 ちがうんだよ、そうじゃないんだと私は怒鳴りたくなる。
 しかし、もう、その時はヘトヘトになっているのだ。
「そういうのと、似ているんだろうね」
 面倒くせえや。勝手にしやがれ、と私は諦める。もう、ウイ、ウイと返事をすることにする。
「ウイ」
「日本人は紙と木とで作った家に住んでいるそうだが、風で紙が破れるだろうね」
「ウイ」
「日本には虎がいますか」
「ウイ」
 かくしてルーアンの仏蘭西人は日本には虎がおり、我々は藁の中に眠ると考えてしまう。私にはどうにもならなかったのである。
 
 その留学時代、私はスイスの国境にちかい田舎の農家で春休みを利用してアルバイトをしたことがある。
 アルプスのとがった峰が砂糖でもかけたように真白にみえる高原の村で、林檎の花が至るところに咲いていた。
 村はそんな峰々の斜面にあって、教会を中心に戸数二十戸ぐらいの家々が牧場にとりかこまれて点在していたのだが、私はその村の若い夫婦の家で働くことになったのである。
 ところが行ってみて驚いた。水道がないのである。水は村の一角に泉があって、それをくむのである。
 そして便所は——水洗じゃない。穴の上に板がおいてあって、日本の田舎より、もっとひどい。断っておくが、私の働いた若夫婦の家は村のなかで貧乏なほうではない。むしろ普通か、裕福なほうだったと思う。
 嘘だとお思いの方は、『禁じられた遊び』という映画に出てくる農家を思いだしてみたまえ。私の住んだ家が想像できるだろう。
 私のパトロンは私のついた日、仕事を説明した。朝の五時に起きて、まず牛の乳しぼりをするのである。
 三月下旬の朝はまだ暗い。そしてこのアルプスの麓はまだ寒い。わたしゃ、五時に叩き起され、本当に辛かったべ。ねぼけマナコで牛小屋にいくと、
「モー、モー」
 と牛が鳴いて、臭い尻をこちらに向け、パトロンはバケツのようなものを彼等の脚の間におき、垂れた乳房をしごくようにして乳をしぼっていた。
 教えられた通り、やってみると、牛がギャーと変な声を出す。そして足でバケツを蹴飛ばす。私があまりに下手糞なので、痛がっているのである。
 翌日も折角、パトロンは自分でしぼった牛乳入りのバケツを牛に蹴飛ばされた私を見て、
「もう、いい」
 と情けない顔をして言った。
 朝飯のあと、水を泉にくみに行った。天びんにやはり二つ、バケツをぶらさげて、水をくみ、それを家まで持って帰るのだが、途中で水がこぼれて、半分以下に減っている。
 若いパトロンはこんな日本人を雇ったのが身の不運だったというように、そのバケツをじっと見ていた。
 私はすっかり、凹んだ顔をしていると、細君のほうが慰めるように、
「子供と遊んでくれる?」
 という。
 私は子守ぐらいはできるだろうと思って、小さな男の子と女の子を牧場に連れていったが、陽はうららとして、林檎の花は白く匂い、アルプスの山はうつくしく、それを寝ころがって見ているうちに、ついウツラウツラと眠ってしまい、眼をさました時は、男の子も女の子も何処かに消えていた。
 あわてて家に戻ると、子供たちはおヤツをたべていたが、若い細君は、もうホトホト呆れたという顔をしていた。
 日本人の学生をあれ以後、あの村ではアルバイトに雇うことはないだろう。
 しかし、あまりに私のできが悪いので、彼等夫婦はかえって笑いだし、一週間後、
「もう、帰っていい」
 とバイト代はくれて、クビになってしまった。
 しかし、彼等はクリスマスになるとカードをいつもくれた。私にとっては懐かしい御主人たちだった。
 とはいえ、私は林檎の花の咲くこの牧歌的な村で大いに楽しい観察をすることができた。巴里やリヨンではみられぬ、仏蘭西の農民の気質や純朴さに触れえたからである。
 村で一番、えらいお方は昔の日本の村と同じように村長さんと教会の司祭だった。教会の司祭はこの村の出身だったから、顔も姿も全く農村出身の雰囲気があり、毎日、オートバイで何処かに行っていた。
 村には一日一回、郵便配達夫が来たが、この中年のチョビ髭をはやした男は、郵便物をわたしては、その家で話しこみ、葡萄酒を御馳走になっては、隣の家に行き、同じことをくりかえすので、夕暮まで村のなかをウロウロとしている始末だった。
 午後、林檎の花の下ですっかり酔っぱらった彼が配達用の自転車を放り出したまま、叢で眠りこけているのを見たことが二、三度あった。
 通りがかった爺さまが彼をゆさぶり起すと、大きなアクビをして自転車にのる。そして夕方、ようやく配達を終えて村を去っていくのが私には非常に印象的で、こんなのどかな村に育てば良かったろうにと思うほどだった。
 この村では日本人が来たのは始めてだったろう。
 夜、私とパトロン夫婦が飯を食っていると必ず、四、五人、遊びにきた。彼等の目的は私の顔をみることだった。つまり、日本人ちゅうもんは、どんな人間か、見にきたべい、と言うわけである。
 四、五人の大人のほかに、必ず鼻垂れ小僧が二、三人、ついてきた。
 鼻垂れ小僧たちは日中、オートバイに乗った神父さんによく怒鳴られていたが、あれは教会の子供用の公教要理(教えの勉強のこと)をさぼって、牧場に遊びに行ったためであろう。
 小僧たちは眼を丸くして、私が食事をするのを見ている。パトロン夫婦はパトロン夫婦で自分の家に日本人を泊めたことが大得意であることはその顔や表情でよくわかるのである。
 ある日、一人の爺さまがやってきた。彼は私の顔をしばし、じっと見ていたが、何を思いけん、突如、
「で、あんたは、チェコから来たのかいの」
 とたずねた。
 今もって、私はこの爺さまが何故、チェコと私の顔とを結びつけたのかわからない。あるいは第二次大戦中、国境をこえてチェコからここに逃げてきた避難民がいて、その思い出と私の顔が爺さまの頭で一緒になったのかもしれん。
「いや、日本からですよ、爺さん」
 と私が答えると、爺さまは重々しい顔で、
「うーん、日本はあの山のずっと向うだあ」
 と呟いたのを私は今でも可笑しく思いだす。
 この村で私がした悪戯の一つがある。道で例の鼻垂れ小僧たちに出会ったので、お前は幾つかときくと五つ、四つと答えた。一人一人、名前を訊ね、俺は何国人だと思うかと問うと、坊主たち、答えられない。私は彼等に世界には日本あり、中国あり、アラビヤありと教えてやり、
「で、君たちは何国人だ」
 とたずねると首をかしげ、
「知らねえ」
 という。私は悪戯気をおこし、
「君たちは中国人なのだ。わかったか」
 と言うと、この仏蘭西の鼻垂れ小僧たちは神妙な顔をして、
「わかった」
 と答えた。

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