暗い古い建物
一時間前、机に向っていた私は突然、電話をうけた。
「川端先生が逗子のマンションで自殺されたそうです」
知らせてくれたのは、『三田文学』の後輩だった。電話はそのあとも次から次へとかかってきた。
先生のお顔を最後に見たのは一ヵ月ほど前。日本ペンクラブの会議室である。ちょうど、今年の十一月にペンクラブ主催で、世界の日本研究家《ジャパノロジスト》の大会が開かれるが、専務理事の阿川弘之の説明を我々、理事や各委員が聞いている時だった。トックリスェーターに上着をひっかけられた先生は会議の終りごろ、部屋にはいられたが、その軽快な服装のため、すこぶるお元気にみえた。
阿川弘之に聞くと、先生はひどくこの大会に情熱を燃やされているとのことで、参加者を京都に招待することにも、ひとつひとつ、こまかい指示をお与えになったそうである。
会議が終って、私が事務室の方に行くと、先生はだれに向っていうともなく「外国にいる日本研究家だけではなく、日本に留学している学者も呼びたいですね」とつぶやかれた。
この三月下旬、私はローマ法王の謁見をうけるため、イタリーに行くことになったが、阿川の頼みをうけてローマ駐在のポルトガル大使、マルチンス氏をこの会議に呼ぶ伝達者になった。
マルチンス氏は外交官でありながら日本文学のすぐれた研究家で、その『日本文学と西洋』という本は定評がある。ローマに着くと、彼の官邸を三浦朱門と訪ね、その旨を伝えたが、「それは川端先生のご希望ですよ」とつけ加えると、大使の顔にパッと喜色が浮んだ。
それは、彼が東京の大使からイタリー大使になって、長年住みなれた日本を去る時、鎌倉の寿司屋で開かれた送別会に川端先生もおみえになり、大使夫妻は大変おどろいていたからである。けだし、大使は川端先生の文学ファンで、書斎にはその英訳された作品が発行されるごとに並んでいくのを、彼とは長いつきあいの私は常々みていたのである。
ノーベル賞をとられたあとも先生は若い後輩にもきさくに話しかけてくだすった。私などとても先生に近よりがたいほうだったが、避暑地のスナックなどで、近所の奥さんや娘さんなどと騒いでいると、ワイシャツ姿の先生がその前を通りかかられ、立ち止ってニッコリと笑われ、ご婦人たちをあの大きな目でじっとみつめられるのだった。
今、テレビから、なぜ先生が自殺されたのか、まだわからないというアナウンサーの声がきこえる。私も私なりに色々と考えるが、しかし、だれが一人の大作家の死に至る心の秘密をつかむことができよう。そういうことは無遠慮に、軽薄に語るべきではないように私には思われる。
私は昨年の冬、ストックホルムを訪れたが、最初の夜、迎えにきてくれたスウェーデンの出版社の人が車で静まりかえった夜ふけの街を通りながら、暗い古典的な建物の前で、急にスピードをおとし、静かにつぶやいたのを思い出す。
「ここで、あなたの国の大作家がノーベル賞をうけたのです」
あれは、暗い古い建物だった。