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ぐうたら人間学52
日期:2020-10-31 19:56  点击:286
 私と競馬
 
 生れつき勝負ごとの好きな人間とあまり好きでない人間があるとするならば、私は後者に属すると思う。
 友人のなかで、吉行淳之介や阿川弘之や近藤啓太郎のようにマージャンやドボンに熱中する人がいると一方では、そんなに面白いものかとふしぎに思えるが、他方ではそういう憂さ晴らしのできることを羨ましく思う。
 いつかの夏、山小屋で昼寝をしていたら、突然、阿川と柴田錬三郎氏とがやってきて、どうしてもドボンというトランプ遊びをやれと強要された。ドボンというのはポーカーとブラック・ジャックをあわせたような遊びで子供でも憶えられるというのだ。
 阿川の家に引っぱって行かれて無理矢理ルールを教えられたが、もともと気のりがしないのだから一回で頭に入るわけはない。二人は最後には怒りだし、
「子供でも憶えるこの遊びが憶えられないようでは最底だ」
 と言いはじめた。
 そこで仕方なく二人と勝負をしはじめた。ところが運というのは無欲な人間につく。ドボンのようにツキで半分勝てる勝負ごとではツイたものが有利だ。向うがあせればあせるほど、無関心な私にツキが来て、三時間の後に阿川も柴田さんも苦虫を噛みつぶしたような顔になり、
「こいつ、なんで強いんだろ」
 とぼやいてしまった。
 それほど、勝負ごとの好きでない私だが競馬だけは二年ほど前からやっている。
 それまではよく電車のなかで競馬新聞をひろげ、赤鉛筆を持っている人をみると、自分はああいう真似はしたくないと思ったものだが、今では同じ恰好をして府中に向う自分に気づいて苦笑することがある。
 そもそもの切掛けは三年前の有馬記念に無理矢理に人に誘われて中山競馬場に行き、何が何やらわからず欠伸かみころして馬の走るのを見ていたが、メイン・レースで買った二枚の特券がつきもついたり四十倍の八万円となり、腰をぬかさんばかりに驚いたことから始まるのである。
(この特券は偶然、場内であった柴田錬三郎氏がつぶやいたのをあまり気のりもせず、ただ買ったのだった)
 以来、土曜日がくれば駅前の競馬新聞を買い、夜のテレビで明日の予想をたのしむようになったが同じ柳の下に二匹の泥鰌のいる筈はなく、勝ったり負けたり、いや負数が多くて年の暮れ、考えてみると赤字の通算成績というわけである。
 それなのに何故、競馬場に行くかと言うと私の場合、古山高麗雄氏の言う「悪魔の囁き」がたのしいからである。古山氏は今、この題で某スポーツ新聞に競馬随筆を書いているが、彼と競馬場で会うと私は必ずツキがわるい。なぜツキが悪いかと言うと、彼は私がまさにあれこれ計算し、思案した券を買おうと窓口に立った瞬間に、音もなく近より、
「確実なスジから聞いたんですが」
 しずかに言う。
「××と○○○とが絶対らしいですよ」
 そしてまた音もなく去ってしまう。この一言、この囁きで私の昨夜からの予想は急に不安の色に塗りつぶされ、迷ってはいけない、と言いきかせながら遂に古山説の馬券に手をだして苦杯をなめること何度あったかしれない。
 私は今は逆にこの悪魔の囁きを窓口のあたりで一人、呟くことにしている。するとそれを耳にした周りの人々の顔に一瞬、動揺、不安がうかび、私の顔をそっといじらしくも盗み見ながら、急いで私の囁いた馬券を追加して買っているのだ。

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