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ぐうたら人間学54
日期:2020-10-31 19:57  点击:239
 私と色紙
 
 講演の依頼を時々うける。申しわけないがお断りすることになる。というのは私は大変な照れやで、あのような水さしとコップのおいてある壇上に立つことを考えただけで身のヤマシサと恥ずかしさをおぼえるからだ。あのような壇上に立ってオクメンもなく堂々としゃべれるのは政治家か教師でなければできないだろう。
 だが私など、まだましなほうだ。私はとも角、三十分なり四十分なり、しゃべるのであるから。吉行淳之介とくると絶対に講演をしないが、それは彼が昔、無理矢理にあの壇上に引っぱりだされた時、二分——二十分ではない——二分、モソモソと言っただけで、あとは絶句して引っこんだからである。
 地方の講演に行くと非常に話しづらい。というのは高校生あり、母親あり、サラリーマンありで、一体、どの年齢の方を対象にしてお話していいのか、戸惑うからである。主婦なら主婦、学生なら学生だけの聴衆のほうが、しゃべりやすい。非常にヘンピなところへ行くとナニワブシの会とまちがえたのか、爺さま、婆さままで来ておられ、前列で小さな子供がキャッチ・ボールをして遊んでいることがあって、もうそんな時にはどうしていいのか、わからなくなる。
 私が講演が嫌いなのは地方に行くと色紙をたくさん持ってこられるからで、漱石や龍之介の色紙ならこれ持ちガイもあるというものだが、三文文士以下の一・五文文士の狐狸庵に字をかけという方の気持がわからない。屑屋でも一円にも買わないだろうから。
 私はすごい悪筆で色紙に向きあっただけで脳貧血が起きるから、そういう時は親友の三浦朱門と同行すると助かる。三浦の字というと小学校の一年生でも丙をもらうような下手糞なもので、しかも彼がその蟻の這ったような字で書く文句というと、いつも必ず、
 ——妻をめとらば曽野綾子
 そんな色紙を一体だれが部屋に飾るのか。
 文壇にデビューした時、はじめて火野葦平氏、中谷宇吉郎博士と北陸に講演旅行に出かけた。
 一番わかい私は講演がすんだあと、開かれる宴会が苦手だった。特に芸者衆が出てくるとどんな話をしていいのか途方にくれ、一人で飲ませてくれないかと、そればかり考えていた。
 サービス精神に徹した火野さんはそういう時、唄も歌われるし、カッパの色紙も次から次へと描かれるし、中谷博士も舞をまわれ、漢詩を色紙に書かれるのだが、若僧の私などに色紙などたのむ人はいない。
 ところが何をまちがったのか、
「あんたも一つ、何か」
 と中年の男の人が四角いあの紙をもってきた。
 私は真赤になり、怯え、再三、断るのだが向うは言うことをきかぬ。仕方なしに私はその色紙に幼稚園の子供でも笑いだしそうな汽車の絵を描いたのである。ヤケのヤンパチの気持だった。
「これはなんだね」
 とその男の人は言う。私は怒って絵の横に汽車と書いたが、ノボせたのかアワてたのか汽車を※[#「さんずい+氣」、unicode6eca]車と書いたのである。
「汽車には米という字は入らんがな」
 男の人は嘲笑するように言った。
 その時、そばで筆を走らせておられた火野さんが真赤になって怒鳴られた。
「むかし汽車は米をつんで走っていたんだ。遠藤君はそれを知っているから米という字をつけ加えたんだ」
 その男の人は黙った。
 火野さんのことを思いだすたび、あの時の氏のやさしさが今でも忘れられぬ。

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