私と対談
講演は苦手だが対談のほうは嫌いではない。むしろ好きだと言ったほうが良いくらいだ。
小説家というのは沢山の人と接触しているようで実は限られた文壇関係の人としか交際がないというのが普通である。自分たち以外の世界で生きている人と話しあえるのは取材の時でなければ、対談しかない。
だから対談の話があれば、私はよほど忙しくない限り、たいてい承諾の返事をする。ただし、それがテレビやラジオでない限りは。
テレビやラジオだと相手の人はかまえる。時間の制限もあるが、それよりもマイクやカメラを意識されて、身がまえられるのが普通である。実際、テレビのスタジオで、カメラがこちらに接近してくると、私など、その背後に主婦連合会のこわい御婦人がたの眼を感じ、声もかぼそくなってしまうくらいだ。
テレビやカメラでない普通の対談はたいていレストランや料亭でひらかれるが、この場合も相手の気持をいかにホグすかが大事であって、私は速記者の人に、
「はじめの三十分は書くまねをしているだけでいい。実際には使わないから」
とはっきり言っているぐらいだ。つまりその三十分は相手の人が私に馴れてくださるまでの三十分であり、初対面という「構え」を捨ててくださるまでの三十分なのである。極端に言うと、対談を一応おえて、
「それじゃ、このくらいで」
と言ったあとの雑談のほうが面白いぐらいで、時によると速記者は帰るが、テーブルの下では依然としてテープ・レコーダを回転させたほうがいいのだ。
私は日本一のインタビューアーはやはり、徳川夢声だろうと思う。週刊A誌に載った夢声老の対談を読むと、この人の間のおき方は定評があるが、相手が無口でも、その無口に困惑している自分自身の面白さを出し、相づちのうち方のうまさ、聞き上手という点、無類というほかはない。
次に感心する対談はやはり吉行淳之介のものである。これは味のこまやかな料理を食っているおいしさがあって、その受け答えの微妙なニュアンスはまさに玄人というべきである。
対談はだれもができるものではない。ただむやみに相手にしゃべらせ、毒にも薬にもならぬ質問をしている対談を読むと、何が対談だと言いたくなる。対談というのはその相手の性格、味が行間ににじみ出るようなものでなければならぬ。
インタビューにはコツがいる。私は対談をしているうちに次第にそれがわかってきた。
たとえば、ある有名な人の夫人と対談をしていた時、その夫人が若い頃、よく主人に叩かれましたわ、とユーモアをまじえて告白された。
こういう時、
「やはり、そうですか」とか「今でもそんなこと、ありますか」などと聞いてはならない。相手はすぐ、自分のこの告白が御主人に迷惑のかかることを怖れ、
「でも若い頃の話ですわよ。今はそんなことありませんの」
と話を抑えてくるだろう。
だから、こういう時は、全くふしぎそうな表情をして、
「そんな話、信じられん。嘘でしょう。信じられん」
と否定してみせるのである。
すると相手は、
「いいえ、嘘じゃありませんわよ。こんなことも本当にあったんですもの」
と具体的な実例をあげてくるのである。これは一つのコツだが、私にはあと五つほどコツがある。