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ぐうたら人間学63
日期:2020-10-31 20:01  点击:320
 清水崑画伯の個展
 
 長崎の田中さん御一家と偶然知りあいになれたことから私は長崎を自分の故郷と思うようになったのだが、縁というものは更にふしぎだった。
 その田中さんと清水崑画伯とが、なんと少年時代からの親友だったとは……。そして崑画伯の長崎での個展はいつも田中さんのお店タナカヤの画廊で開かれているのである。
 今年もまたその画伯の個展がタナカヤで開催されるので、私は編集部のYさんと今、長崎に来ている。最終回の原稿だけはどうしても記念のために長崎で書きたかったからだ。
 長崎という町は日本に珍しい華やかな色彩をその底にもっているくせに、他方はその華やかさのゆえに受ける迫害や受難をたえず味わわねばならぬという別の顔がある。私が長崎に心ひかれるのはその両面があるからだ。
 切支丹がこの地方で迫害をうけていた間、彼等はひたすらにサンタ・マリアを思慕して生きつづけてきた。ひょっとすると、これら切支丹は神やイエスよりも聖母という母なるものを思いつづけて生きてきたのかもしれない。彼等が持っていたマリア観音のいじらしい顔をみると私はそう思わざるをえない時さえある。
 タナカヤの画廊で清水崑画伯の絵をみながら、私は急にこの事を感じた。私の拙い文章に描いてくださった墨絵とちがって、この個展の絵は、長崎のハタあげやおくんちや精霊ながしという華やかな行事を織りこまれた色彩ゆたかな絵である。しかしその華やかな色彩のかげに、何となくサンタ・マリアを——いや、母なるものと言ってもいい——母なるものを思慕している何かがある。それは、タコの糸のもつれを解いている女性のカッパの顔であり、母を失った子供のカッパが父親と祭りに出ていく顔に、あらわれている。
 画廊の一隅に精霊ながしの絢爛とした夜の屏風があったが、その華やかさが長崎の一面であるとするならば、数隻の舟が海にむかって出ていく『ペーロン』と題する絵の言いようのない淋しさも長崎のもう一つの面である。私はしみじみ、清水画伯は長崎の画家だと思いをあらたにした。
 明治の初め、やっと鎖国はとけたが、日本人の信仰の自由はゆるされなかった。長崎に来た僅かの外人のために仏蘭西人の司祭が大浦天主堂をつくり、そこに、いじらしい聖母の像をおいた。
 神父はひょっとすると、かつて迫害をうけて根絶したという日本の切支丹の子孫たちがどこかにいるのではないかと長崎の町やその近郊をたずね歩いたが、人々は首を横にふるだけだった。むなしく日はすぎていった。
 だがある日、その神父が聖堂で祈っていると、一人の日本人の農婦がそっと聖堂にしのびこみ、彼の耳もとで囁いた。
「サンタ・マリアさまのお像はどこ」
 そして聖母の像を見せられた時、彼女は始めて嬉しそうにああ、可愛かと呟き、自分たちはまこと切支丹であるとうちあけた。
 ながいながい迫害と禁教令の間、切支丹の子孫は人々の眼をあざむきながら、聖母を思慕しつづけてきたのである。彼等の苦しい毎日には、ただ聖母、母なるものの思慕だけが生きる支えだったのである。この大浦天主堂の神父と切支丹との邂逅とが近代日本の信仰の自由を作ったことを知る人は少ない。
 しかし清水画伯のカッパの絵をみていると、私には、サンタ・マリアのお像はどこという声がきこえるような気がする。母なるものは、どこという声がきこえるような気がする。
 長い間、読んで頂いて有難うございました。

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