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ぐうたら人間学98
日期:2020-10-31 20:15  点击:277
 いじわるバアサン歓迎
 
 老人の美風のうちで、最近、姑婆《しゆうとめ》さまの「嫁いじめ」が都会で見られなくなったのは、まことに残念である。近頃の家庭ではいかにも物わかりよさげな姑が「うちの嫁はほんとうにいい人ですよ」などと言い、嫁は嫁で「こんなにやさしい姑さま持ったあたしは倖せ」などと女学生の友情ごっこに似たような見えすいた愛情ごっこを他人にみせつける傾向があるが、姑と嫁とは川が低きに流れるごとく、憎みあってこそ姑と嫁なのであって、それが本来の姿なのである。姑が最近いかにもやさしげになったのも、むかしと違って「家」がなくなり家庭の中心が嫁に移ったから、食いつないでいくために嫁の機嫌をとる必要があるからで——世の若い妻たちよ、これら偽善的婆さまの戦術にひっかかってはならぬ。
 また世の婆さまも心にもない仏づらはもう捨てて、本来、女の持っている鬼の姿にかえるがいい。そのほうが、どんなに正直で、偽善的でなく気持がええワ。
 むかしの姑は渋柿をわざわざ嫁の目の前でむいてやり、
「さア、おたべ。疲れたろ。ほんとに、よう働いてくれるの」
 そう言って一切れを食べさせ、
「甘かろう、この柿は」
 それぐらいの立派な芸当はしたもんだ。
 お風呂だって、拙者の知っとるある姑はわざと自分が嫁の入る前に入り、その時、湯をできるだけ使っておく。嫁が入浴する時には風呂桶に身をかがめても、膝の半分までしか湯も残っておらぬ。
 そこで嫁は湯舟のなかを這《は》いまわり、手で湯をすくって体にかけるという始末で、これをじっと硝子《ガラス》戸のかげから見ておるんだな、姑さまは。
「湯加減はどうだい」
 猫なで声でそう言う。
「よく、あたたまって出なさいよ」
 いやはや、スゴかったなあ。むかしの姑は。これが姑、本来の姿であって、こうした姑が、あんた一朝一夕で、ニコニコ、物わかりいい優しい婆さまに変ると思いますか。そんな阿呆らしいことはないのであって、彼女たちに何かの打算、何かの考えがなければ、物わかりいい姑となる筈はない。だから拙者はイヤなんだなア、知人の家などに行って、
「本当にできた嫁でございますよ」
「うちじゃア、姑さまがあたしと義男さんと映画に行ってこいと奨めて下さるんですよ」
 そんな背中にジンマシンの起きるような愛情ごっこの会話をきかされるのは。
 本当の話、近頃の若い嫁は少しツケあがっておるのではないか。むかしは亭主がご出勤とあらば三時間前におき、朝食の仕度はもとより、洋服、ハンカチ、財布にいたるまでキチンとそろえ、靴もみがいてお送りしたもんである。それがどうだ。今の亭主は自分で冷蔵庫から牛乳だして飲み、こそこそと靴をはいている頃、女房はあのネグリジェとかいうメリケンコ袋の洗いざらした奴をきたまま、頭に仏壇の金具のようなものをベタベタつけ、
「はい、今日のお小遣、百円」
 あくびしながら銀貨一枚を彼に手渡すのである。今の女房たちは電気冷蔵庫、電気洗濯機、掃除機などのおかげで、ほとんど働くことがない。むかしの嫁のように寒中、手をかじかませながら赤ん坊のオムツを洗った経験もない。それを、
「便利になって結構な話じゃないか」
 年寄りたちが、いかにも理解ありげなことを言うからいけない。今の若い妻たちの精神はいけないのですよ。断じて。むかしの嫁にくらべ。
 だからこそ、鍛える必要がある。彼女たちを叩きなおすため、もう一度、姑の嫁いびりという日本伝統の嫁教育を復活させるべきと思うがいかん。

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