仮面をぬぎすてるとき
自分が別の人間になったような気がする。それは仮面をかむるということだな。黒眼鏡をかけることによって、別の自分を世間にみせるということだな。しかし、別に黒眼鏡をかけなくてもワシたちは、本当の顔を他人にみせておらん。会社では会社むきの顔をつくり、恋人には恋人むきの顔をつくり、家庭でもやっぱり家庭むきの顔をつくっておるのよ、ワシたちは。あんたも、そうだろう。
えらそうなことを言う文化人先生だって同じだろうな。ベトナム問題を論ずる時はベトナム問題むきの顔をつくり、大衆に迎合する時は大衆に迎合むきの顔をつくっておるのだな。そしてわれわれもこれらの大説家たちも、今や、次の自分の本当の顔はどんなものであったか、わからなくなってきたのだなあ。
「ぼくの素顔はどんなものだったでしょうか」
ひょっとすると、われわれの間にはこんな質問をとり交すこともふしぎでないかもしれん。
しかし、人間が一瞬だけだが、自分の本当の顔をとり戻す時が、人生にはかならず一度はあるもんだ。それは、ワシラが息を引きとる時。生命の力が次第に失《う》せ、死の翳《かげ》が夕靄《ゆうもや》のように迫ってくるあの瞬間、はじめてワシらの長い人生の間に他人に見せていた仮面が蒸発して、自分だけの顔を夕映えのように浮びあがらせる。だから、デス・マスクといわれるものは「死顔」ではなく「素顔」と訳すべきかもしれんのだ。
話が何だかムツかしゅう、湿っぽくなったなあ。こんな話が気楽な読物でないことは、百も承知しておるが、しかし読者よ。ゆるして下され。たまには鼻毛引きぬきつつ、拙者も、人生のことをしんみり、みんなと語りたい。