北杜夫氏の巻 世にも不思議な御曹子
北杜夫は本名、斎藤宗吉、いうまでもなく斎藤茂吉の次男である。
北杜夫——『夜と霧の隅で』で芥川賞をとり、『楡家の人びと』で洛陽の紙価をたかめた彼はまた「どくとるマンボウ」もので多くの読者を持っている。特にわれわれの仲間で、圧倒的に女性ファンのついている点では、その右に出る者はない。口惜しいがこれは事実である。
北の『どくとるマンボウ航海記』は六年前、すさまじいベスト・セラーになり、紳士も主婦も令嬢も中学生も争ってこれを買った(一九六〇年刊——編集注)。続いて『船乗りクプクプの冒険』で数多い小学生ファンを獲得した。うちのチビ助などは北が始めて遊びに来た時、まるでわれわれ中年男のところに園まりが現われたように眼を赫《かがや》かせ、北をじいっと憬れの眼で見ていたものである。(この子は父である私が外で働き働いて足を曳きずるようにして帰宅しても、お帰りなさいの一言も言ったことはない)
北の出す本で版を重ねなかったものはない。『楡家の人びと』といい『白きたおやかな峰』といい『怪盗ジバコ』と言い、それ悉《ことごと》くベスト・セラーでなければベター・セラーである。それなのにこの男はいつも不精髭をボシャボシャとはやし、見ばえのせん服を着てウロウロしている。なぜだか、わからぬ。とにかく、奇妙な男だ。
家は小さいが、夫人はすごく美人である。夫人は毛利元就の一族、吉川元春の子孫で、北はこの夫人を「どくとるマンボウ」時代、ハンブルグで獲得した。私はこの間ポルトガルに行った時、コインブラの古道具屋で古い純金の宝石箱をみつけ、それを夫人へのプレゼントとして買ったくらいである。
北がこの夫人と始めて知合ったのは、今書いたように彼が何を思いけん、船医として貨物船に乗って波濤万里、ヨーロッパをまわってハンブルグに上陸した時である。『どくとるマンボウ航海記』をひらくと、ハンブルグのこの部分は実にアイマイに書いてある。次がそのすべてである。
「ハンブルグにはAともベントさんとも知合のY氏という日本人がおり、そこに送金して貰えば万事好都合なので、Aに紹介の手紙を出してもらっていた。私はただその金を受けとるだけのつもりだったのに[#「ただその金を受けとるだけのつもりだったのに」に傍点]、Y氏からはカユいところを孫の手十本でひっかくほどの世話をうけた[#「Y氏からはカユいところを孫の手十本でひっかくほどの世話をうけた」に傍点]」(傍点は周作)