厚情は身にしみたが
その病院である夜、消燈後に長い時間がたっても眠れぬ私が闇のなかに眼を開き、あれこれ行末のことを心細く考えていると、突然、看護婦の駆けてくる跫音《あしおと》がして病室の扉をひらき、
「遠藤さん、起きてますか。あんたの知合いだという変な酔払いがねえ、看護婦室に来て、会わせろ、会わせろと怒鳴っているのですよ。しかし消燈後ですから面会をあたしたち、ゆるせないんです。わかって下さいね」
と怒鳴ると、また、廊下をバタバタと駆け戻っていった。何のことやらワケがわからず、私は一応、ベッドから起きあがってそっと扉をひらいて顔を出すと、暗い灯のともった向うの看護婦室の前に酔払った北が立ち、体を団扇《うちわ》のように動かしながら、
「ここは、ぼくの勤めていた病院ですぞ、そのぼくが患者に会いたいと言っているんですぞ。あんた、会わしてくれんですか」
と叫んでいる姿が見えた。小心な私は看護婦に叱られるのがこわさにオロオロと扉のかげにかくれていたが、やがて諦めた北の影は階段の入口に消えていった。病院のきびしい規則とは言いながら、折角たずねてくれた彼に一言も語れなかったのも悲しく、彼の厚情も身にしみてそのうしろ姿を見送っていると、突然、「アァーッ」という悲鳴とダ、ダ、ダ、ダダ、ババンというすさまじい音が階段からひびいた。酔払った彼が足を滑らせて、ころげ落ちたのである。私はほんとにすまない気がした。なぜなら、その頃になると始めは足しげく通ってくれた見舞客も数少なくなり、私は同じ病棟にいるタクシーの若い運転手から、
「あっちの病棟には石原裕次郎が足を折って入院しているがね、あそこには女優が毎日十人もくるぜ。あんたは同じ芸能人なのに、女優なんか一人も来んじゃないか」
と不当な侮辱を受けて泣いていた頃だったからである。
漸くにして退院した私はその夏、軽井沢に小さな家を借り、病後の体を養っていた。軽井沢には先輩文士たちがみな避暑にやってくる。ちょっと町を歩けば、その人たちとすぐ顔が会う。一番、若い私はそのたびごとにペコペコ頭をさげねばならぬのが辛いので散歩の折なども出来るだけ表通りに出ず、裏の細い道を日陰者のように歩いていたため、叢《くさむら》に巣くうブヨにかまれて足をはらし一向に面白くない毎日だった。のみならず、こうした先輩文士を訪ねた雑誌社の人たちが、気らくな私の家を休み場所にして、
「ああ疲れたよ。疲れたな。室生犀星先生のところで一時間、畏っていたら膝がしびれた。ちょっと何か飲まして下さい」
と駆けこんできては飲物を飲み、私には原稿を書けとは一言も言わずに東京の編集長に川端先生や、室生先生の原稿はまだできぬと高い電話をかけるのだった。私は遂に腹をたて川端家と室生家に飲物代と電話賃を請求したいと意気まいたが、妻にみっともないからおよし下さいと叱られて黙りこんでしまっていた。