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ぐうたら交友録04
日期:2020-10-31 20:29  点击:269
 では五分、では一杯
 
 その時、突然、北が私の山小屋にあらわれたのである。昨日まで先輩に道でペコペコ頭をさげていた私は、はじめて頭をさげなくてもいい友人に出会ったことを大いに悦び「友あり、遠方より、来たる。また楽しからずや」と手を打ったほどだった。しかし北は、礼儀正しく、ここで失礼すると答えた。聞くと、家族は東京に残して、すぐ近くの某家の一室を借り『楡家の人びと』を執筆中ということだった。私が「まあ、いいじゃありませんか」と奨めると、北はしばらく考えていたが、
「そうですか。では五分、お邪魔しましょう」
 そう言って家のなかにあがってきた。私が高級なるウイスキーを出すと北は手をふり「かまわんで下さい。五分で失礼します」と叫んだが、無理矢理、一杯、注ぐと、
「そうですか。では一杯だけ」
 そしてたちまち一杯、飲みほしてしまった。二杯目をつごうとすると、首をふったが、まもなく、
「そうですか、では二杯で終りにします」
 と言った。
 こうした動作がわれわれの間に幾回か繰りかえされた後、北は六杯目、七杯目をいつの間にか飲みほし顔は赤黒くなってきたが、突然、今までの謙譲な態度がガラリと変り、ともすればウイスキーの瓶をもう引っこめようとする私の手から(なにしろ、そのウイスキーは高くて私も惜しくなってきたのである)瓶をひったくり、ドクドクドクッとコップの一番上までついで、
「あんた、こんなものを飲んどるですか。ぼくは平生、フランスのコニャックの銘柄しか飲まんですぞ。人間、飲みものにケチケチしていてはいいもの書けんですな。ぼくはあんたや山口瞳と同じようにエロ場面など絶対、小説に書かんが、やがてみんながビックリする大場面を書く決心がありますぞ。火星の女と地球の男の恋愛場面ですな。これを読んだら、あんたたちは腰をぬかして驚くですぞ」
 レロレロの舌でレロレロロと三時間も演説し、のみならず、
「いい匂いがする。何を食っとるですか、お宅は。ぼくも食ってやるですぞ」
 夕食も食べて引きあげたのだった。
 さあ、それからと言うものは翌日もくる。翌々日もくる。玄関では愁いにみちた顔で、「いや、ここで失礼します」と呟くのが、一度部屋に入って酒を飲むと、
「ぼくはもう大人の小説はあんたや安岡さんや吉行さんに委せるですぞ。ぼくは子供の小説を書くですぞ。これはホンヤクしやすいから、たちまち全世界にホンヤクされ、ぼくは世界的大作家になるですぞ、今はぼくは三文作家にも及ばん二・五文作家ですが、十年したら百文作家になって、レマン湖畔に仕事部屋をたてるですが、あんたはいつまでもこんな陋屋《ろうおく》にくすぶっとるですか」
 とレロレロとしゃべり続け、晩飯を食って帰っていくのだった。
 病後のこととて、私は当時、仕事をあまりせず、従って、北に毎日、大飯をくわれるのが辛く、夕暮になると子供を門の前にたたせて警戒させていると、子供は間もなく息をきらせて家に駆け戻り、
「キタさん、きたよ。きたよ」
「きたかッ」
 私は作家のペンネームにはこだわらぬほうだが、この時ばかりは北のきた[#「きた」に傍点]が「来たッ」に聞え、杜夫という名から、飯の「盛り[#「盛り」に傍点]」を連想したぐらいである。もちろん北杜夫はそんな意味でペンネームをつけたのではなく、彼は東北大学の医学部を卒《お》えたので、北の都、杜の都、仙台からこの名を考えたらしい。
 言葉とか発音とかはこのように復雑なものだが、先年、北とこの問題で言い争ったことがある。
 二年前、北はお尻にデキモノをこしらえて入院したことがある。かつて階段をころげ落ちて見舞に来てくれた彼の友情を思いだし、私は都内の某高級洋菓子店から砂糖漬の栗——つまりマロン・グラッセを十個買い、病院を訪れたのであった。北は手術前のこととて、憂いにみちた顔でまずそうに病院の飯を食っていたが、私をみると嬉しそうに起きあがった。私は帰りがけに彼のまくらもとにマロン・グラッセの包みを、さりげなく、おいて、病室を出た。

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