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ぐうたら交友録06
日期:2020-10-31 20:29  点击:298
 出発のころ 焼け野原の東京をうごめく
 
 長い長い戦争が終り、東京はすっかり焼け野原になってしまった。私は当時、三田の仏文科の学生だったが、久しぶりで戻った大学は講堂も図書館も悉《ことごと》く瓦礫《がれき》となり、わずかに残った校舎もその半分を進駐軍に使われているという状態だった。
 ひもじかったし、寒かった。窓硝子の破れた教室で空腹を我慢しながら、やはり空腹のため、弱々しい先生たちの声を聞いていると、おのずと貧乏ゆすりが出はじめた。私も友人たちもアルバイトをしない者はほとんどいなかった。
 大学予科に入った時、父の命ずる医科ではなく文科にやっと補欠で入学したため家を追出された私はアルバイトは前からやっていた。学業成績は宜しくなくても、ことアルバイトに関してはかなりベテランだった。
 そこで日吉の予科からこの三田に進んだ時、アルバイト馴れをしていない級友たちが、
「なあ、何か仕事を考えろよ」
 と四、五人、私の下宿に集まってきた。彼等は宮城前でモッコかつぎをやって、すっかり悲鳴をあげていたのである。こうして遠藤商会がすぐ結成された。
 遠藤商会で私たちがやった仕事は三つあった。一つは代返《だいへん》であり一つはノート写しであり最後に靴みがきだった。代返というのは余儀ない事情で教室に出られぬもののため、出席の返事を代りにやってやることである。読者のなかにも経験者がおありだろう。簡単なようだがこれは技術がいる。声色《こわいろ》を一人一人について変化させていかねばならぬからはなはだムツカしい。
「田中君」「ハイ」「山田君」「ホイ」「木村君」「ヘーイ」「吉川君」「ヒャーイ」報酬をもらって代返を引受けた以上、それを成功さすべく苦心惨憺して大声、間のびのした声、女のような声を次から次へと我々は出したものであるが、代返の料金は一人二円で、当時の二円は今の四十円ぐらいに相当したろう。
「ノート写し」というのは授業に出られなかった連中のために試験前、ノートを写しておいてやることである。原本になるノートは女子学生から借りたが、我々こそ大学が男女共学になった最初の学生だった。三田には圧倒的に皇太子妃さまの出身校である聖心や白百合へ行くべきような学生が入学し、彼女たちは何でも言葉の上にオをつけるので育ちの悪い我々は甚だ当惑した。たとえば次のごときである。

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