不器用なバイト学生
「次のお講義のお教室はお廊下の向うでございますわね」
「いいえ、お、お廊下のお向うじゃありません」
と我々はオドオドして答えたものだ。
「お便所のお向い側でございます」
しかしこれらの女子学生は男子学生とちがい、真面目に教室に出席し、丹念に講義をノートにとっていた。そして教授の声は一つ残らずノートにとっているため、それを筆写していると、しばしば理解困難な箇所にぶつかった。
「実存主義はサルトルがえへん唱えた説ではなく既に独逸《ドイツ》の哲学者がえへん考えていたのである」
私たちはその中に幾度も「えへん」「えへん」という文字があるのに困惑したが、やがてそれらは教授が咳ばらいをしている声であることを了解し、聖心、白百合出身の女子学生の真面目さに深く深く頭をさげた次第だった。えへん。
ノート写し部は試験が迫るにつれ、申込みが殺到してきた。一冊五円だったと思う。当時は今の大学のようにプリントなどをする者はいなかったから、この仕事は遠藤商会の独占だった。我々は一人で一冊のノートを五人の申込者のために写したが、五回も写せば、いかに頭の悪い我々でもそのノートの内容はほとんど暗記できる。おかげでアルバイトをしながら試験準備もやれるのだった。
靴みがきを考えたのは私だった。私は田町駅前の闇市の前に並んだ靴みがき屋から地廻りが場代を集めているのを見て、この事業を思いたったのである。
(どうしてボクらが靴みがきをしてはいけないだろうか)と。
靴みがきを三田の大学内でやろう。そうすれば地廻りから場代を取られることもない。それに同じ大学の先生や学生たちは他で磨かせるぐらいなら、我々に磨かせようと思うだろう。そう仲間に話すと二人の男が賛成した。その一人に今、三田の哲学科の教授となり、マルセルやリュバックの学者である三雲夏生もいた。
三雲と私とは図書館の焼けあとから煉瓦を二つひろい、赤と黒の靴墨と歯ブラシ一個、ブラッシ一つを並べ、じっと腰かけていた。風の吹きさらしの中で空腹を我慢していると一人の学生が来て、びっくりしたように我々を眺め、それから意を決したごとく、
「お願いします」
と言った。自分の靴さえろくに磨かぬ我々は不器用な手つきで彼の黒靴を磨きはじめたが、そのズボンをまくってやるのを忘れていたため、あわれ彼のズボンの裾に靴墨がベットリついてしまった。それでも怒りもせず、この学生は十円をおいて去っていったのである。
だが次の客になった男はもっと悲劇的だった。なぜなら私たちにはブラッシは一つしかなかったから、さきほど黒靴を磨いたブラッシでこすられたこの客の赤靴はたちまちにして奇妙にも赤黒く変ってしまったのである。しかしこの学生も文句を言わず金をおいてくれた。
あの頃の我々は互いに顔を知らなくても妙な連帯感があった。お互い、戦後学校に行くことがどんなにむつかしいか、わかっていたからであろう。なかには「いや、とても同じ学生に足など磨かせられねえや」と言って自分で自分の靴を磨いて代金をおこうとした男もいた。すると三雲がソレデハイカン、金ヲトルワケニハイカンと彼と哲学的に大議論をし、靴墨代だけもらうことで決着がついた。
時には、我々のうしろで遊んでいた幼稚舎(慶応の小学校)の生徒が三人、
「ほくら倖せだなア、こんなことしなくても学校に行けるんだもん」
そう呟いて、翌日、国電のシートを切り取って持ってきた。そして、
「大学生さん、これを使うと靴がよく光るよ」
と言ったので三雲は感激のあまり、自分は倫理学を今後、専攻するといいはじめた。今日彼が倫理学教授になったのは、これが原因の一つなのかもしれぬ。