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ぐうたら交友録17
日期:2020-10-31 20:34  点击:253
 学識豊かな純潔紳士
 
 だが三浦はシモの話は好きだが、我々仲間のうちでは学識豊かなジェントルマンで通っている男である。小説家のくせに、もう長い長い間日本大学で教えている。一日に一冊は必ず本を読みあげる。きくところによると、授業態度は非常にきびしいそうで、
「俺、自分の義務をキチンと守らん奴、嫌いやねん」
 とある日、彼は私に呟いたことがあるが、私はその言葉をきいて、むかし彼の教えている日本大学を受験して落っこった経験があるだけに、あの時浪人三年の俺を落した試験官は彼ではなかったろうか、いやそれでは年数が合わぬがと、ぼんやり考えることがある。そんな彼だから時折、バーなどに誘っても、居心地が悪いらしくツマらなそうな顔をしている。彼が最近だした随筆のなかに「自分は身も心も浄《きよ》らかなままで結婚した」と書いてあったが、これは本当であろう。結婚前も結婚後も浮気など一度もしたことのない男——それが三浦朱門なのである。
 彼がある日、私にシンコクな顔をしてこう言ったことがある。
「小説の場面で、温泉マークを書く必要があるんやけど、俺、温泉マーク行ったことないねん」
「そんなら奥さん(曽野綾子)と見物に行ってみたら、ええじゃないか」
 とこっちがすすめると、四、五日して情けなさそうに、
「女房に、俺、何もせえへんから[#「何もせえへんから」に傍点]、温泉マーク行こ、言うたら、イヤやと首ふりよるねん」
 と嘆いていた。で私は思わず笑いだしてしまったが、笑ったのは彼が夫婦で温泉マークを見物に行こうとしたことではなく、「俺、何もせえへんから」とわざわざ女房に断った点である。全世界広しといえども、自分の女房にむかって自分は指一本ふれないから逆さクラゲに行こうと頼んだのはわが三浦ぐらいのものであろう。
 酒はのまんが、この男、大飯ぐらいで、
「朱門は茶碗で食わぬ。おヒツで食う」と我々の間では評判があるくらいだ。その彼の大飯ぐらいのために、私は数年前、ひどい目に会ったことがある。
 それはその年も終ろうとするかなり寒い日だった。我々文士は大体毎月、二十日から二十三、四日ごろまではたいてい忙しい。このころ、締切りが重なるからである。特に十二月は印刷所の関係でメチャメチャになる。
 だからあれは二十四日以後の寒い日だった。ともかくも一年の仕事を終えた私は、急に温泉でも行って手足を思いきり伸ばしたくなり、三浦を誘うと彼も行くと言う。
 そういうわけで汽車にのって伊豆に出かけることにしたのであるが、私の気持としては熱川ぐらいに行って、ノンビリ一晩を休養するつもりだった。
 ところが小田原をすぎたころから例によって三浦が「腹がすいた」と言いはじめた。小田原で彼はすでに駅弁をたいらげたはずだが、何か食うとかえってすぐ空腹になる男だから仕方がない。やむをえず私は熱海でおりて、ここで一泊することにしたのである。
 前置きが少し長くなったが、許して頂きたい。実際、この時、三浦の腹の虫が泣きはじめなければ、我々は熱海におりることはなく、熱海でおりなければ、我々は世にもふしぎなあの出来事にぶつからないですんだのである。
 熱海におりると、風のつめたい駅前広場は既に夕暮で、旗をもった客引たちが五、六人、改札口を出た我々のそばによってきた。それがウットウしいので私と三浦はわざと広場をぬけて、東海道線のガードをくぐり、北側の山にむかう坂路をのぼりはじめた。そちらのほうが閑静な旅館があるような気がしたからである。
 線路を左にみおろせる崖ぞいの路を歩いていると、向うに日の暮れた熱海の町と暗い海と燈台の灯がみえた。曲り角に一軒、イキな作りをした宿屋があったので、我々はそこに泊ることにした。
 それは宿屋というよりはむしろ、大きな別荘といったほうがいい家で、門を入ると玄関まで石段があり、石段の右は竹藪になっていた。そしてこの竹藪のなかにやがて問題になる離れがあったのである。
 ともかく、我々はこの家で風呂にはいることができ、晩飯をくった。久しぶりに仕事をはなれて、熱い湯にのびのびと手足を伸ばし、もう今年は締切りもなくなったと思うと気持がよかった。

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