柴田錬三郎氏の巻 錬さんの教えを守り芥川賞
あれは梅崎さんが易者に私をつれていった頃である。私は本屋の店頭で『三田文学』をパラパラと立読みしていた。正直な話、その時まで自分の母校である三田にどのような若い作家が出ているのか、あまり関心がなく、その雑誌を手にとったのも買うためではなく、ただ軽い好奇心にかられたためにすぎなかった。
と、編集後記に柴田錬三郎という名で次のような意味の文章が書かれているのが眼についた。
「新人のいかに稚拙な原稿でもそれが真剣に書かれているたならば、襟をただして読むであろう」
私が柴田さんの名を知ったのはこの時が初めてである。今でこそ『眠狂四郎』の作者の名は世にひろく知られているが、当時の柴田さんはまだ無名の作家だった。小説を書くかたわら、読書新聞の編集をしていた頃なのである。
私は走って家に帰り、それから『三田文学』に電話して、原稿をみてもらうにはどのような手続きをすればよいのかを訊ねた。電話にでてきたのは女の人だったが、親切に、次の土曜日に同人の方たちの集まりがあるから、邪魔にならぬよう、そっと出席してもいいと教えてくれた。
六月の梅雨の季節でその土曜日は霧雨だった。私としては先輩の集まりなどに出るのは初めての経験だったから、これでもかなり緊張していたものとみえる。神田のN書店の一室でその『三田文学』の集まりがあったのだが、私がついた時は既にその会合は始まっていた。十四、五人ほどの先輩たちが車座になって話しあっていて、若僧の私が一礼して末席についても誰一人として見てくれる人はない。こちらはひどく場違いな所に来た気がして、足の痺《しび》れるのを我慢しながらそっとこれら先輩の顔をうかがっていた。