リヨンで遺書を見る
下宿に、大久保房男氏からの二通の手紙が届いた。一通は大久保氏自身で原さんの死を知らせてくれた手紙であり、もう一通は原さん自身の遺書だった。原さんは大久保氏に、友人たちあてに遺書と遺品として自分のネクタイを一本ずつ送るよう頼んだのである。
「去年の春はたのしかったね」
遺書はその言葉ではじまっていた。多摩川に、あの少女とボートを漕ぎにいったことを言っているのである。そして最後に彼の詩が書いてあった。
遠き日の石に刻み
砂に影おち
崩れ墜《お》つ 天地のまなか
一輪の花の幻
それから十年以上もたった。原さんの名も、原さんの名作『夏の花』も今は語る人は少ない。しかし、読者よ、もし機会あれば、この孤高で清純だった作家の本を開いてください。人間にはその人のことを思いだせば、胸がいたみ、その人が自分にとって一つの良心であるような存在にめぐりあうことがあるものだ。私にとって原さんとは、そのような人だったのである。
二年前、あの少女に縁談がおきた時、柴田錬三郎氏と大久保房男氏が彼女にそんな縁談はやめろと言っているのを横で聞いたことがある。
「やめろと、おっしゃっても」と、その少女は言った。「その人、いい方なんですもの」
「いい方か、どうか知らんが、そいつはリン病だから、やめろ」
錬さんは相手の名も人物も知らぬのに、目茶苦茶を言っていた。読者はとんでもない話だと思われるかもしれぬが、私にはよくわかる。大久保房男氏も錬さんも、その少女をいつまでも原さんと結びつけておきたかったのである。