安岡章太郎氏の巻 せせら笑う�黄金賞�の男
三年間の仏蘭西《フランス》留学から戻った時、私はその年の芥川賞が安岡章太郎だと耳にした。安岡はその著書『良友、悪友』で、自分が三田時代知っていた遠藤周作というガラの悪い男がいち早く留学生になるなんて思ってもいなかったと書いていたが、私のほうも、芥川賞受賞者の安岡章太郎を、かつて見た安岡のイメージと結びあわせるのに、しばし時間がかかったぐらいだった。
たしかに三田時代の私はガラが良かったとは言えぬ。ここにも書いたように靴みがき、代返、闇屋、なんでもやったし、教室では大声でわめき散らしていたのも、安岡ののべていた通りである。
しかし安岡だってガラがいいとは言えなかった。私が三田の教室で時折みた安岡はほとんど授業には出席せずに、昼休みなどブクブクの復員服に大きなマスクを口にかけ、ボストンバッグを手にぶらさげて姿をみせる変な男であった。そして、
「君い、文学をやるためには、まず江戸趣味を養わねばいかんな。うん、そうだよ」
と周りの者に大声で言いきかせるのであったが、彼に声をかけられた者はただキョトンとして何と返事をしていいのか困りきっているのであった。なぜなら我々、仏文科の教室にいる者はほとんど当時、日本にも流行しはじめたサルトルに熱中するか、あるいは進歩的文学こそ文学であると考えている連中ばかりであったから、そこにやってきて、古くさい江戸趣味を養わねばいかんよオと話しかけられても、ただもうポカンとするのが当り前だったのである。
それに江戸趣味と言ったって戦災で焼けただれた占領下の東京のどこにそれを見つけるべきであろう。のみならず、こう言っちゃ悪いが、ブクブクした古びた復員服をきて大きなマスクをした当の安岡自身の格好には、江戸趣味もヘッタクレもあったものではなかったからである。だが断っておくが、それに気づかなかったのは安岡一人の罪ではない。話は少しそれるが、かの大宅壮一氏は生れてから顔を洗ったこともなければ歯をみがいたこともない。それは大宅氏自身の口から私がうかがったことだから嘘ではないだろう。その時も「うん。そうだ、近頃は料亭でおシボリがでるから、日中それで顔をふくこともあるが……」と呟いておられた。その氏が東京都を美化する委員会の席で都を美しくする方法を論じられた時、横の席にいた戸塚文子氏は大宅氏の肩がフケだらけなので思わず心のなかで「東京ヲ美化スル前ニ、マズ大宅氏自身ヲ美化サレタシ」と叫んだそうである。(これは戸塚さん自身からきいた話だから本当である)大宅氏のような大評論家でさえしかり。まして安岡や私のような小説家においてをやである。