裏にかくれた苦しみ
マルキシズムと同様、後に宗教にあれほどの関心を持ちながら、先生は一方では宗教とは矛盾する芸術を棄《す》てることはできなかった。先生の『大和古寺風物誌』や『美貌の皇后』を読みながら、私はそこにいつも先生の苦しみと矛盾を感じていた。大和の古寺や仏像——それは往時、信仰の対象だった。しかし先生がそれらにひきつけられるのは信仰よりむしろそれら仏像が美しいからであり、芸術的であるからである。和辻哲郎の『古寺巡礼』が我々にあたえた毒を先生も文学者として飲んでいられるのだ——そう私はひそかに考えていたのである。多くの読者は先生の『大和古寺風物誌』や『美貌の皇后』のあの美しい文章に酔う。しかしその裏にかくれた先生の苦しみと傷に気づかない。
「ぼくにとって、長い間、理想的女性はヴィナスだったが、向うの人にはマリアなんだな」
その時、私はそう呟かれた先生の顔をみた。午後の光のなかで微笑は先生の顔から消えさり、表情はひきしまっている。この言葉が先生にとってどれほど切実だったかを知りたい読者は、その後書かれた『私の美術遍歴』という本を読まれるといい。そこで先生はマリアとヴィナスを対比されているからである。
それから数年後、私は病気をして入院していた。ある日、突然、先生が見舞にきて下さって、少し照れくさそうに、
「これは、ぼくが中国旅行の時、スケッチした北京の風景なんだが」
一枚のクレヨン画を枕元においてくださった。私は、その絵を今でも大事に持っているが、その後、その同じ病院に先生が癌《がん》で入院されるとは夢にも思わなかったのである。
病床についている間、その病院には先輩の文士が癌のため幾人か入院し、あるいは恢復《かいふく》し、あるいは息を引きとっていった。平林たい子さんのようにみごと乳癌を治療されて退院されたような人もあれば、吉川英治氏や青野季吉氏のように帰らぬ旅につかれた方もいる。ある雨の日、大分、体のよくなった私が散歩していると、暗い検査室の前に心細そうに並んだ数人の外来患者のなかに私は正宗白鳥氏の姿をみつけた。氏は背をまげ、ビーカーをもち、ひどく沈んで寂しそうに私の眼にはうつった。
吉川英治氏は肺癌で私とは別の病棟に入院されたが、時折、私のところに秘書の方をよこされて、沢山の花や果物などを届けて下さるのだった。
氏の付添いだった婆さまが後に私に付添ってくれたが、看護婦に注射一本うたれるたびに、
「痛て、てて、痛てえぞオッ」
と大声でわめく私をみて、
「あなたも小説家でしょうが。あたしはね、吉川先生につきましたけどね、あのお方は大手術をうけられたあとも、痛いなど一回も言わんかったですよ。それにくらべて、あんたは何です。注射ぐらい何です」
とたしなめる。それでも私は痛て、ててと叫びながら、吉川さんを半ば偉いと思い、半ば恨んだ。というのはこの付添いだけではなく、この病院の看護婦たちまで私をみるたびに、
「あなたみたいに病院をぬけ出て無断外出するような患者は、吉川先生を少しは見習ったらどうですか。あなたも小説を書く人でしょう」
といつも怒ったからである。
評論家の青野季吉氏が入院された時は辛かった。氏が胃癌だとは友人から耳にしていたが、青野氏自身はたんなる胃病だと思っておられたのである。病室に見舞にうかがうと、大変、よろこばれて、
「君はいつまで入院せねばならぬのかね。ぼくはもうすぐ退院らしいよ」
と、少しドモリながら言われる。癌とは知らずにそう言われる青野さんを前にして、見舞客の一人である私はただ、うつむくより仕方がない。のみならず暇《いとま》ごいをしようとした時、入室してきた主治医らしい医者が聴診器をあてながら、
「大分、よくなりましたね。もう一週間したら歩けますよ」
などと、やむを得ぬ嘘を言い、それを青野氏がうなずいて聞いているのを見たのがとても辛かったのである。