阿川弘之氏の巻 狂の字がつくアンパン坊や
狂という言葉がある。キチガイという意味ではない。あることに夢中になりすぎて、その言動、はたから見ると常軌を逸した御仁を言うのである。
私の友人の中でも阿川弘之はまさしくこの意味にふさわしいお方である。彼には四つの狂がある。乗物狂。食物狂。軍艦狂。そして賭博狂である。もし彼が小説家に非ずんば、競輪の選手か、阿川飯店の親爺かになっていたであろう。もし彼が不幸にして女性と生れていたならば、呉か、佐世保に住みつき、軍艦婆さんなどと呼ばれ、軍艦が来るたび、用もないのに日の丸をもって港をウロウロとしている老婆となったであろう。
と言えば、人は私が誇張していると思われるかもしれぬ。実は私も彼を深く知るまでは、このお方をたんに趣味多き人と考えていたのである。たとえば食物に関しても口うるさい食道楽の一人と思っていたのである。
だが、二年前のことである。某社の講演旅行があって曽野綾子と阿川弘之と私と三人が講師となり東海地方を歩きまわった。あれはたしか静岡だったと思う。
講演おわって三人で食事をした。季節は秋、マツタケが出た。三人で同じ鍋をかこんだが、私は最後の講演者だったから少し遅れて、座敷に入った。既にその時、二人は食事を半ばすませていた。
こういう時は、普通、遅れてきた者のためにマツタケを一人前、残しておくのが礼儀である。流石《さすが》、心ある曽野さんは私のために一人前、マツタケを残しておいてくれた。なぜなら彼女と阿川とは自分たちの分を既に食べ終っていたからである。(読者はクドいと思われるかもしれぬが、この点が大事である。了解されたし)