我儘亭主と不良児童
私が入院をした時、一番目に見舞に来てくれたのも近藤であった。彼は生卵を並べた箱をまず出し、
「これはダチョウの卵だア。このダチョウの卵をよオ、毎日、飯の時、一個ずつ食べると精気がつくぞオ」
と説明し、さらに風呂敷包みから女のヌードを表紙にした雑誌を幾冊かだして、
「精気のついたところでよオ、このヌードをみると、おめえ、早くよくなって娑婆《しやば》に戻り、こんな女を見てえと思うだろ。え、そうだろ。それでよオ療養に精だすちゅうわけだ」
と大声で言った。ちょうど検温に来ていた若い看護婦はエロ雑誌をふりまわして大声で私に話しかけているコンケイに仰天し、あわてて廊下に飛出していったが、私には彼のやさしさがじいんと胸にしみた。
卵+ヌード雑誌=回復というのはもちろんコンケイのアイディアだったが、彼の論理にも型破りなものが多かった。彼は自宅で眼前に灰皿があっても「おーい、灰皿」、そばの机に煙草があっても「おい、タバコ」と怒鳴って家人にとらせ、決して自分でとろうとしない。この暴君ぶりも不良児童を日本にはびこらせぬための行為なのだとどこかの雑誌にコンケイが書いていたのを、私は読んだことがある。我儘《わがまま》亭主と不良児童防止とはどうしても我々には結びつかぬが、近藤は、亭主が威張っていない家では子供が父親を馬鹿にして言いつけをきかなくなり、やがて不良になるのだ。だから亭主たるものは眼前に灰皿があっても威張って家族にとらすべきであると言張るのだった。
私はそれを読んだ時、首をひねり、可笑《おか》しくもあったが、その後、近藤の鴨川の家に遊びにいくと、なるほど彼の子供たちは日に焼けて心身ともに健康そのものであり、なるほど親爺は眼前に灰皿があっても「おい、灰皿もってこい」と大声をあげているのであった。そういえば彼は鴨川の中学で絵の教師をしたことがあるが、その指導をうけた生徒はみるみるうちに上達してコンクールなどに入選したという話だ。
そのコンケイがある日、私に趣味向上のため碁を習うことを奨めた。私は賭事は不得手だが碁なら憶えてもいいな、という気になりうなずいた。
当日、コンケイの命令で集まったのは吉行淳之介と梶山季之に野坂昭如に私、それに先輩の杉森久英氏だった。私たちはプロ二段の女の先生からまず碁の初歩ルールを習ったが、それは複雑でよくのみこめず吉行も野坂もポカンとし、杉森氏は眼をパチパチさせているだけだった。
それでも三回目ぐらいになり相手の石を囲めばいいのだということもわかると、吉行と私とはすぐ金を賭けて勝負をしはじめた。そこへ一人の痩せた顔の長い人がフラリと入ってきて我々の碁を横で眺め、さらに梶山と打っている杉森さんの横に坐った。
杉森さんは首を右にまげたり左にまげたりしながら、
「ここかな、ここに打てばいいかな」
ひとり呟き、石をおいた。するとその痩せた、顔の長い人は笑いながら扇子をパチリパチリならし、
「そこでは少し、ねえ……」
すると杉森さんはイライラとして、その人を見つめ、
「あんた、碁を知っとるんですか、知らないなら黙ってて下さいよ」
と怒った。男の人は苦笑し、コンケイがびっくりして叫んだ。
「杉森さん、この人は名人だワア」
「名人」杉森さんはまだキョトンとして、
「名人ってなんですか」
「坂田名人だよオ。碁では一番えらい人を本因坊名人というが、その人だア」
杉森さんはもちろん、我々も畳から一尺、飛びあがるほど驚いた。坂田名人をつかまえて碁を習ったばかりのくせに「あんた、碁を知っとるんですか、知らないなら黙ってて下さいよ」と言ったのは古今、東西、杉森久英氏ぐらいなものであろう。さすがの坂田名人も苦笑するより仕方なかったにちがいない。
われらがコンケイは我々の碁熱をたかめるため、おだてることもうまかった。「吉行の碁は坂田流で遠藤のは高川流だア」と言ってくれたり、「いや、この前にくらべると、格段、うまくなっただ」と我々を悦ばせた。
「そういえばおめえの顔も品よくなってきたなア」
この碁の集まりは楽しかったが、先生がアメリカに行かれてしまったため、なくなったのは残念である。読者のなかで若くて美人の女性で我々に碁をまた教えてくださる方はおらぬであろうか。(ただし、若くて美人の先生に限る)