女優たちの深い溜息
ところで私は女優さんたちが意外に小遣いを少ししか持っていないことにもビックラしたものである。
吉永小百合さんが卒論のことで私の家に相談にこられた。私は小説家で別に教師でもないが、彼女は早大で歴史を勉強しているので、東西交渉史の一つともいうべき切支丹時代のテーマをたずねてこられたのだ。私はその時、彼女を女優として扱わず学生として扱い、ない知恵をしぼって色々、考えをのべたり、人には見せない本棚も見せたので、そのかわり、こんな不躾《ぶしつけ》な質問をしてもいいと思った。
「あなたは、今、いくら持ってますか」
すると彼女はちょっと、困ったような表情になり、「あの……千円です」と答えた。
私は彼女が質素可憐のファン・イメージにあわせて、そんな答えをしているのではないかと思い、財布の中の全部出してみてくれないかと頼むと、本当に千円札一枚しかはいってなかった。財布を出す時ポケットから南京豆の皮がゴミクズと一緒にこぼれ出たのが可憐だった。私が吉永さんのファンクラブにひそかにはいろうと決心したのはその時である。
緑魔子さんに「今、あなたはいくら持っていますか」とたずねると「いくらかなア」と言い、化粧箱の中から財布を開いたところ三千円ぐらいしかなかった。桑野みゆきさんは六千円であった。女優さんになると世話する人がみな払ってくれて自分は金をもたないのか、あるいはどこの店でもツケになるのかと思ったが、それにしても小遣いは少ないのかもしれない。
私は女優や男優をみて飽きることがない。ファンや社会のイメージにあわせて生きていかねばならず、たえずマスクを顔につけている存在は非常に興味がある。もし読者のみなさんが万一、美男か美女に生れて女優か男優になり、ファンから、
あなたのつぶらな瞳
やさしくボクに微笑んでいる
ボクはあなたを胸にもって
一生懸命 生きていく
などという詩や手紙をもらったら、それこそ照れくさく、息ぐるしく、そのイメージをぶっこわすために、わざとおナラなどをしてしまわれるだろう。だが女優になるにはそれを平気で受けとめる強い神経か、鈍感かのいずれかが必要である。だから一人で布団にはいった時、「アー、今日も一日、終りました」とふかい溜息をついていると考えたい。