�鹿追い�と�秋の鶯�
小田急、鶴川の駅をおりて左にしばらく歩くと次第に丘陵となる。鶴川、柿生のあたりはその地名のごとく柿の木がいたるところにあるのだが、なかでもM村は全村、これ柿の老木に埋まり、秋におとなうとその実の色が実に鮮やかである。
山人はこの村からさらにしばし山をわけ入った雑木林に草廬をあんでいるが、諸君がもしたずねられたいならば、その林のなかにたって、まず土産物は何をもってきたかを大声でいったほうがいい。山人は世を捨てたなどと言っているが、あれでなかなか慾ぶかで吉良上野介のようなところがあり、客の土産物によって、待遇がかなり違ってくるからである。
もう一つ、訪問客が注意せねばならぬことは、面会中たとえ、奇妙なことに気がついても決してそれを口に出してはならない。あくまで山人を花鳥風月のみを相手にする世捨人のように扱い、自分は俗人でまことに無風流だと言う顔をすべきである。それでないと狐狸庵山人の機嫌はたちまち悪くなるのである。
私ははじめ、それを知らぬため、失敗したことがあった。
その一つは山人自慢の鹿追いの音をきいていた時である、彼は庵をとりまく雑木林に竹と石とで鹿追いをつくり、それがひどく自慢げであった。
京都詩仙堂に遊ばれた方はあの静寂たる庭に規則ただしくカーンとひびく音をきっと耳にされたであろう。あれはその昔ここの堂主が書見の折、庭にまぎれこんだ野鹿をわざわざ立って追いはらわずともすむよう、流れに竹と石をおき、水の重さではねかえる竹が石を打つ音をひびかせたのである。狐狸庵山人もどうやら昔それにいたく感激したらしく、それをマネて作ったらしいのだが、だがマネたところでこのあたりに第一、鹿などおるはずがない。野鹿もおらぬところに鹿追いはそれ自体、滑稽である。しかし山人は、
「うーむウ、ききなさい、静寂、石うつ竹の響きに深まりますナ」
などと諸君につぶやくであろう。だが京都詩仙堂の鹿追いは、
カーン
鋭い爽やかな音であるのに、ここのそれは、
ボコン
鈍い、阿呆臭い、スカ屁のような音で、静寂、石うつ竹の響きにとても深まるとは思えない。しかし、もしそのようなことを諸君が口にだせば、山人の機嫌はたちまち悪くなり、諸君を無風流の俗人と罵《ののし》り、野暮で夢がないと言いはじめるから黙ってその阿呆くさい音にも眼をつぶり、感にたえたような顔をすべきなのである。
また、山人の随筆にしばしば、「雑木林に集まる野鳥の声は朝の眠りを起す」という言葉が出てくるのもあまり期待しすぎてはならない。
私は某日、山人とその庵で談笑しておると、山鳩のわびしく鳴く声がきこえてきた。折しも秋の夕暮であり、言いようのない寂寞たる心地がして、
「ああ、山鳩が……」
と叫ぶと、山人は得意気に鼻をピクピクさせ、
「さよう。私は今、花鳥風月のみを友として世を過しております。濁りきった市井にはもう飽きた。この山里で風雅の道を送ることこそ、私の生甲斐でありますなア」
などと例によって例のごとくつぶやいていたが、突然、山鳩の声がやみ、
ホー ホケキョ
たからかに鶯の声がきこえてきたのである。
秋に鶯の声とはハテふしぎなと思った私が思わず立ちあがると、山人も周章狼狽、あわてて障子をしめたが、ホケキョの声はなおも聞えつづける。
「うーむ。季節はずれの山鶯も時折おります」
山人はしどろもどろに弁解されるが、私はどうも腑におちない。早速、靴をひっかけ、雑木林におりていくと、何と鼻たれ小僧が二人、温泉地などで売っている鳥笛をいくつも持ち、ホケキョと吹きならしておるではないか。この子供らは山人から十円をもらって、客が庵にたずねてくると、吹きならし、あたかも野鳥の群れが遊びにくるがごとき雰囲気をこしらえていたのである。もっともこの事実を私は山人には知らん顔をしておいたから、今後も狐狸庵閑話などを読まれる向きは、私同様、だまされた顔をしておやんなさい。そのほうが本当の風流というものでござる。