爬虫類マニア
めっきり暖かくなりましたな。
惰眠をむさぼるには、モッテこいの季節だ。諸君、やってますか。我輩ちかごろ、毎日うつらうつらでございます。我輩だけではない。わが狐狸庵にはダー坊、トー坊というガマが棲息しておりましてな。冬の間は雑木林のいずれかにひそみおりましたが、冬眠さめてノソリ、ノソリと池のほとりに坐りこみ、まだ眠いのか、しきりと眼をパチクリさせておる。
古池や 蛙とびこむ 水の音
俳聖芭蕉の句など舌の上で口ずさみつつ、しばし東洋的閑寂を瞑想しつつあるところに、
「爺さん。爺さん」
チンドン屋のような洋服を着たO青年が大声あげて飛びこんできた。この青年、そう悪い若者ではありませんが、洋服の趣味と発声とが実に下品でして、
「爺さんと呼ぶのは止してもらいたい」我輩しずかにたしなめた。
「せめて翁《おきな》とでも言ってもらいたい」
「あッ、ガマだ。蹴とばしてやれ」
「何と言うことを口に出すのだ。生命あるもの、これ悉く我等と同じ。愛さずんば非ず。法然上人もそう申されておる……」
「あれエ、爺さんは動物や虫が好きなんですか」
「ああ、好きだとも。一日、見て飽きることがないね、動くのが面倒な我輩には。動物は読んで字のごとし、動く物とある。こちらの代りに動いてくれるものゆえ」
「それじゃ教えるけどね、動物を友とし、動物と共に暮しておられる方が江戸は本郷に住んでいますよ。その名は高田栄一」
「おお、高田栄一さん」狐狸庵、思わず膝を叩き、「高名かねてより承る。前々より何とかしてお目にかかりたいと思うておった方だ」
かくてその翌日、O青年につれられ、狐狸庵主人はまがれる腰をのばし、杖ひきて、高田邸を訪うたのであった。花鳥風月を友とし、俗塵棄てたる狐狸庵と、人間世界を嫌い、蛇、亀、猿を友とする高田栄一氏とは一目会うなり通じあい、胸襟ひらいて語りあう。
その庵《いおり》を綺亀喜亀窓と名づけ、庭の一角に蛇三十匹、亀二百匹、トカゲ七匹などの爬虫類諸君の住家をつくり、禽舎《きんしや》を備え、リス、ハナグマ、トビを飼う高田氏はフクロウと手長猿とを遊ばせた書屋《しよおく》に狐狸庵を招き入れた。
狐狸庵は以前より一つのことに興味を持っておった。小説のなかでも動物と人間との関係を扱った動物小説がかなり多い。
ところでそういう動物小説は二種の型がある。第一種の型は、人間のイヤラシサに吐き気をもよおした男が、犬だの狼だの虎だの、あるいは蛇などに、何とも言えぬ純粋さと美しさをみつけるという小説である。
もう数年前になるが狐狸庵の若い友人で、この型の動物小説を書いた人があった。この友人は皮膚癌の手術のために容貌をいちじるしく変形せねばならなかったのであるが、彼はその哀しみを一匹の蛇に托してその小説を書いた。人間からみにくいゆえに嫌われる蛇——その蛇に自分の今の姿をみつける主人公の哀しみ——そしてその主人公と蛇とのひそかな心の交流——それが彼の小説ににじみ出ていて狐狸庵はふかい感動をうけた記憶がある。その若い友人はやがて病で倒れてしまったのも痛々しかった。
この種の型の動物小説のほかに、主人公が動物や虫になって、われら人間社会の偽善やウソを面白おかしく皮肉るという小説もある。
ガーネットと申す異国の作家の『狐になった奥さん』はその代表的なもの。
ムツかしい話はこれくらいにして、狐狸庵がこの綺亀喜亀窓主人に好奇心をもった理由の第一は、氏が動物小説主人公のいずれに属するやと言うことであった。
「私はねえ、小学校に上がるまえ、動物園で錦蛇を見たのですよ。その時、筆舌につくしがたい興奮を憶えたんです」
錦蛇の発散するすさまじい生命力と美しさは少年の高田氏を完全に圧倒し、捉えたのである。狐狸庵もそれほどではないが同じような経験をしたことがある。若かりし頃、マレーのペナンという町に出かけたことがあったが、そのペナンに蛇を祭る蛇寺という寺があり、天井も床も熱帯産のさまざまな蛇がからんでいた。その中に一匹、自動車のタイヤほどの太さをした錦蛇がトグロを巻いていた。熱帯の強烈な光がその胴体に反射して、その宝石のような眼、その巨大なトグロから狐狸庵は生命の塊を連想したことがある。
「わかります、わかります。その感じ」
「わかりますか。それは、いい。じゃあ、ぼくのペットであるボア君をここにつれてきましょう。体長二・五メートル、胴の太いところで直径十センチはありますよ。知っているでしょう、ボアは南米産の大蛇です」
狐狸庵はニッコリうなずいたが、それまでこわごわ手長猿をみていたO青年が、
「大蛇を……ここに……つれて……くるんですかア」
「そうです」
「ゆ、ゆるしてください。ぼかア、死んだ母親の遺言で……蛇と部屋を共にすることは……」
周章狼狽、コマネズミのように逃げださんとする姿勢をとったのであった。
「まあ、そういわずに見て下さい」高田氏はニッコリ笑って、
「人間は意味もなく蛇をなぜ嫌うのでしょう。蛇ほど可愛い、純な奴はいませんな。人間が蛇を嫌うのは、ただ彼に足がないからです。人間という奴は自分と同じような足がある動物ならまだ親しみをもちますが、自分と次元のちがう足のない蛇には理由のない恐怖や不安を感ずるんですな」
そう一言、言い残すとスタスタと書屋を出ていかれた。待つこと三分、やがて驚くべし、首に南米産のボアをまきつけ、体長二・五メートルの両端を手で支えながら氏が悠々とあらわれたからたまらない。O青年は見るも無残なほど顔面蒼白、膝をガタガタふるわせて、
「なむまいだ、なむまいだ」
歯の根もあわぬ状態である。
人間の本当の勇気というものはこういう時にあらわれる。平生は大言壮語するO青年は、おそれおののくが、平生はグウタラな狐狸庵が動揺の色すら見せずニッコリ笑うさまは、奥ゆかしいというか、立派というか、真の大人物とはこのような人のことを言うのであろう。
「いやア、これは見ごとな蛇でありますなあ。ボアちゃんか。いいお名前だ、ボアちゃん」
「気に入りましたか。ひとつ、だいてみませんか」
「だく? この大蛇を? この拙者が? うむ。だきたい、だきたいですが……左手が近頃……中風で……まことに残念」
「なに、左手を使わなくて大丈夫ですよ」
それではと狐狸庵、手をそっとさしのばし、大蛇ボアの胴体にふれると、まるで蝋のようにひんやりとした感覚である。しかしたんにひんやりとしているのではない。生命のある陶器にふれたあの感覚に似ておる。
「首にまきつけてごらんなさい」
「首に? この大蛇を? この拙者が? まきつけたい。まきつけたいが、首が……近頃、中風で、まことに残念」
「なに、じっとしておれば大丈夫」
ヌルヌル、スルスル、いや、そうではない。音もなく大蛇ボアは狐狸庵の膝から首に這いあがり、その小さな頭をしきりと首にすりつける。
「い、い、や、あ、かわい……も、もんだ」
流石の狐狸庵も体を硬直させて震え声である。彼が感じたことは、大蛇の重さというのは相当なものであるということと、そして首のまわりを一回転した時、かなりの圧力が血管に加わったということで、もしボアが本気で体をしめたら大の男ももがきようがないことがこれでハッキリハッキリわかりました。
余談ではあるが、この時かの時、問題のO青年は部屋の片隅で小さくなって震えておった。
高田氏がこのボア君の次に見せてくれたのは南米産のテグ(Tegu)という大トカゲである。
全長五十センチ、黒地に白い斑点が散っていて、その光沢が素晴らしい。時々、炎のように二つにわれた長い舌を出す。高田氏が卵の黄身をあたえると、その舌を矢のように素早く出して、なめる。
「こういう蛇やトカゲのエサ代だけでも大変でしょうが」
「二百円の白ネズミを一週間、一匹の蛇が十もたべるんですから」
「高田さんにはこの蛇君やトカゲ君の感情の動きがわかりますか」
「わかりますねえ。彼等の感情は食べたい時、食べている時の満足感、警戒している時、怒っている時などに分れますが、じっと見ていると、今、どういう感情を持っているか、すぐわかりますよ」
しばらくしてから蛇舎に足をふみいれて、錦蛇が怒った時、どういう声をあげるかを聞かせてもらった。我々の体臭をかいだ錦蛇は、まるでこわれたモーターのような声をあげて威嚇した。
「しかし、まあ、よく仲良くなったもんですなあ、爬虫類と」
「こういう爬虫類は最初から決して苛めたり、こわがらせてはダメなんです。虎やライオンのような高等動物なら先に人間をコワがらせるよう訓練すべきですが」
高田さんはこうした爬虫類を趣味で飼うことに反対する。本当に彼等に好かれたいなら、彼等のために自分の日常生活を犠牲にしなければならないのだと、力説された。
「ぼくはねえ、人間にくらべてこの蛇やトカゲのほうが、ずっとずっと純粋だと思いますねえ。ぼくの気持をわかってくれるのも、この蛇やトカゲですよ」
この言葉で、狐狸庵は高田氏と動物との関係が大体、わかったような気がした。かつて美しい蛇の物語を書いて死んでいった若い友人の気持がふっと思いだされたのである。
「ぼくはね、だからハンターが嫌いです。自分の快楽のため、獣を殺す奴は大嫌いです」
「なるほど」
「夜なんか、こいつらをこの部屋に自由に遊ばせながら、酒を一人のんでいると、たまらん気持ですなあ」
高田さんは詩人である。詩人だからなにもこの人間社会が大嫌いというわけではなかろうが、しかし高田さんの心にはどこか人間嫌いの傾向がひそんでいるにちがいない。ウソと偽善とにみちみちた人間にたいする嫌悪感があるにちがいない。その嫌悪感が強まれば強まるほど、ボア君やテグ君にたいする愛着はましていくのである。
「ぼくの理想はねえ。象にまたがって、自分の友人である動物や爬虫類を引きつれて、都大路をのしあるくことですよ。これほど大きな社会諷刺はありませんからねえ」
さきほどから狐狸庵は高田さんの顔をみながら少し奇妙なことに気がついていた。
犬は飼主に似る、という諺がある。あれは本当だ。怒りっぽい飼主に飼われた犬は怒りっぽくなる。弱気のサラリーマンの家の犬はどこか神経質で気が小さい。
性格だけではなく、家畜と飼主とはその顔まで似るものである。
狐狸庵の知っておる猫キチガイのお婆さんは彼女の飼っているドラ猫とだんだん顔がよく似てきた。あるいは猫のほうがお婆さんの顔に似てきたのかもしれん。
そう言うと高田さんに失礼かもしれないが、氏の顔は、どこか表情ゆたかな可愛い蛇のようではないだろうか。これはなにも高田さんにとって不名誉なことではない、むしろ顔に相似形をおびるまで、氏と爬虫類との間には我々の立ち入ることのできん友情がむすばれている証拠である。
「岡本太郎さん。あの人、カラスを飼っているでしょう。だんだん、カラスに似た表情をされるようになりましたよ」
狐狸庵は下をむいて呟いたが、高田さんにはこの言葉はきこえなかったらしい。
狐狸庵はまだ卵をペロリ、ペロリ長い舌をだして食べているトカゲ君のそばで、自分も同じ表情をして舌をだしてみた。
遠いむかし、我々は同じ祖先から生れたのであり、環境のおかげで、狐狸庵は人間、テグ君はトカゲにわかれたが、元は一緒なのである。どこか似ていない筈はないと思う。