真向法代
三日ほど前から胃の調子が悪うなりましてな、庵の戸をとじ、臥せっておりました。別に痛みがあるというでないが、腹がもたれるような鈍い重さで、
(癌じゃないかの)
年が年だけに、やはり気になるでなあ。鏡で顔をみると、あんた、あんまり宜《よろ》しゅうないな。
そのうち、胸まで痛くなってきた。胸が痛いのは肺癌かもしれん。そう思うと急に死神が足音しのばせて来たような気がして、
「西方浄土、往生楽死、冷飯禁物、一発放屁」
経文心に念じつつ、センベイ布団、頭からひっかぶっておると、
「ちアー」
来たよ。うるさいあの若僧が。
「ちア、ちア、ちア、いないんかなア。爺さんは」
戸をガンガンならしおって、ズカズカあがりこんで、
「おや、病気ですかい」
「病気じゃあないが……」
「爺さんは一日、庵にたれこめて体を動かさんからいかんよ。それじゃア、どんな人間でも体がなまってしまうさ。少しア、運動でもしなさいよ」
いつになく誠意こめた口調でそう言うからこっちも、ちと心を動かされ、
「そうか、運動か」
「水泳にでも行かんですか」
水泳は嫌だ。若い頃は隅田川にて相馬小坪流のみごとな抜き手を切ってみせ、あのあたりの茶屋の娘からヤンヤといわれた狐狸庵であるが、今は若いものがウクレレなどもちこんでおるプールは嫌だ。
「ゴルフはやらんですか」
馬鹿いわっしゃい。あんな金のかかるものをやってたまるか。御先祖さまに相すまんワ。
「そうか。爺さん」
とO青年は、
(1) 金もかからず
(2) 時間もとらず
(3) 子供でも老人でもできて
(4) メキメキ効果のあがる
健康法を指示する人を、狐狸庵のため探すことになったから、あいつも意外と親切だな。
三日後——
「ちアー」
ふたたび姿をみせたO青年。
「見つかったかの」
「うん。渋谷にね、真向法《まつこうほう》という独得の体操、教えるお方がいてね。長井|洞《はるか》と申される。その方の健康体操が爺さんの言う金もかからず、時間もとらず、子供でも老人でもできるから、行ってみませんか」
「メキメキ効果があがるか」
「さア、それはわからんが、しかしあるのでしょう。財界のお歴々をはじめ、押すな押すなの盛況ですから」
「断っておくが、わしゃPRはいやじゃよ」
「何をいうか、爺さん。世界の平和は個人の健康な肉体からと、日夜普及活動に粉骨砕身なさっているお方だ」
例によって、O青年、いささか興奮しはじめてきた。
というわけでその翌日、渋谷の上通り、ちょと登ったところにある真向法の長井氏のお宅をおたずねした。路地裏のしもたや風、一見どこにもあるような二階家、軒燈に真向法と書かれてあるだけの何の奇もないお宅である。
さて、現われいでたる長井洞氏は堂々たる体格、狐狸庵よりはもちろんお若いが、それでも五十歳くらいと思われるのに、その血色のよいこと青年のごときである。
「さア、どうぞ、どうぞ」
そこで早速、氏に話をうけたまわることにしましたが。
「実は私の父がこの体操をあみだしたのです」
「真向という名のいわれは?」
「ひたすら無念無想の思いで対象に真っすぐ向いあう、これぞ真向法の本意です」
長井氏の父上は四十二歳の時、中風で倒れられ、左半身が不自由であった。そこでその苦しさから何とかして健康をとり戻したいと考えられ、脳外科に通ったり、高僧を訪問したりしたが、どうしても効果がない。ところがある日、「勝鬘《しようまん》経」を読んでいるうち、「勝鬘及一家眷族頭面接足礼」という言葉に接し、この頭面接足礼とは何かと、学者や宗教家にただしたり、印度の古い像を見たりして、これから一つの天啓を得られたという。
「ほう、それが真向法の体操になったわけで?」
「そうです。基本動作は四種類、これを朝晩合わせて七分ほどくり返しさえすればいいのです。まず第一動作です」
この体操は写真でもあればハッキリわかるのだが、長井氏が試みてみた第一の動作はむかしの武将の坐る恰好、あるいは内裏雛の坐る、あれですな。あぐらをかくようにして、ただ両足の先をピタリと合わせる。しかし、その時、膝が畳についていなければならん。
「やってごらんなさい」
何をこのくらい朝飯前と思うたが、それがあんた、できんもんだて。
「イテ、テ、テテ」
「痛いですか」
「イテ、テテテ」
狐狸庵はもちろんのこと、O青年も、
「イテ、テ、テテ」
「できんですか。いいですか。その坐り方はもともと赤ちゃんの坐り方」
「はい」
「赤ちゃんというのは、体の細胞がまだ真新しい——いわば新車ともいうべき時です。その新車時代と同じことができんというのはあんたらの肉体機械が中古車と同じようになっていると言うべきで」
「ごもっとも、ごもっとも」
「だから、その中古車をまた昔と同じように新車同様にせねばならん」
「なるほど」
「その新車同様つまり三歳の童児の身体にするのが、この真向法の体操なのです」
そして長井氏がみずからやってみせると驚くべし、膝はピタリと畳につき、そのままおじぎをすれば、頭も畳につき、「頭面接足礼」という言葉にピタリとあてはまる。
「第二動作はこれ」
第二動作は大無量寿経の中にある五体投地礼からとったものだそうで、足を前に投げ出したまま、上体を前に倒し、顔を足先にできるだけ近づけるというもの、ボートを漕ぐような形である。
「なんだ、そのくらい俺だってやれら」
O青年、頑張ってみたが、これまた駄目。夜ふかし、マージャン、酒でもちくずしたこの青年の体は哀れむべし、中古車どころかポンコツ車に近いて。
「ひゃア、とてもできん」
「ところが、これを毎日、七分やっておれば、だれでもやれるようになるのです」
と長井氏は言われる。
「わしのような老人にもできますかな?」
「もちろん。老人にもできます」
「一日、七分で」
「そうです。一日、七分で結構」
たった一日七分のこの体操で、健康メキメキ増進するならば、こんなうまい話はない。それに金もかからん。場所もいらん。
「これを三年おやりになれば、新車と同じピチピチした肉体になりますよ」
「三日や五ン日《ち》ではダメですか」
「もちろん。歯を磨くのと同じように、朝晩習慣づければいいのですよ」
意志薄弱なるO青年、狐狸庵の方をチラと見て、首をすくめた。
われわれがこうして長井氏の話を伺っている間にも、少し中風で体の不自由なお年寄りや、若い娘二人がこの体操を受けにきておりましてな。
若い娘二人は初めてらしく、長井氏の助手に指示されて、一見、モンペ風の寝巻に着かえさせられ、例の第一、第二動作をやらされたが、これもやはりできん。だれもできんのであるから、狐狸庵がイテ、テと叫んだとて決して恥ではない。
「お嬢さんたち、補助マッサージを行いましょ」
助手諸君が、それぞれこの娘たちに補助マッサージを行う。
「あれをやると、筋肉も幾分やわらかくなって、真向法の体操もさっきよりはできる筈です」
狐狸庵じっと見ておると、お嬢さんたち、イヤらしい爺いねえ、という風に、胸元などかきあわせる。なにを、安心しゃっさい。若い娘の胸などみたいものか。伊達には年とらんて。それに一人の娘はオカメの大根足。もう一人の娘は狐づらの骨皮スジエモンであるから、誰が覗くものかね。
「この体操は美容にもききますか」
「さあ。体は肥り気味、やせ気味の人があっていいのであって、わざわざ無理して体力消耗をやることはありますまい。近ごろの流行の美容体操のように」
長井氏は苦笑される。
補助マッサージがすむと、もう一度.第一動作をさせてみる。すると、なるほど、さっきよりははるかに膝が畳につくようだ。
「いわゆる体操とわれわれの真向法の体操と違うところは、今までの体操は体を操《あやつ》ることと考えた。しかし私たちは体の操と考えています」
「ほう」
「體という字は、豊な働きをする肉体という意味で、操という字は、木の上に沢山の果物が結実し、それを持ち続けるという象形文字です。つまりわれわれの肉体も、生命あふれていた頃の少年時代には、伸びるべき筋は完全に伸び、曲るべき関節は完全に曲っていたが、あのように、いつまでもフレキシビリティとモビリティを保つように心掛けたいものですよ」
「ごもっともです」
しかし筋や関節の若がえりということはよくわかるが、この体操によって内臓は若がえるかな。それから、頭脳——こいつは年とればこの狐狸庵のようにボケてくるもんであるが、こいつはどうかな。
「でも天命には逆らえんでしょう」
「天命、寿命には逆らえません」
長井氏はうなずいて、
「しかし、人それぞれの天命までは健康でありたいものですな」
長井氏のお宅を辞去すると、小雨がふっておった。
「爺さん。あの娘二人がうしろから来ますぜ」
ふりかえると、さっきのオカメ娘にキツネ娘がヒョコ、ヒョコ歩いてくる。
「お嬢さん、お嬢さん」
O青年はそばに近より、
「一寸、おうかがいいたしますがね」
「まア、何ですの。失礼ね」
「いえいえ、我々はジャパン・ジムナスティック・ソサエティの者で、こちらはかの御存知狐狸庵先生」
「まア、こちらが狐狸庵先生ですの」
キツネ娘もオカメ娘も急にニコニコ。
「あたし、先生のファンですのよ。先生の随筆、大好き」
「いやいや、お恥ずかしいことだ。お恥ずかしいことだ」
「まあ。そう顔をポッと赤らめられるところが素敵ですわ」
「ところで、そんなクダランことよりも」とO青年は妬み心に燃えた顔で、
「さきほどの体操の調子はどうでした」
「なんだか、体がグーンと伸びたような感じ」
「足が軽くなって歩きやすい感じ」
二人とも口をそろえて、真向法をこれから続けていきたいと言う。
庵に戻って、それより狐狸庵、曲った腰を折れんばかりに、毎日、長井氏に教えられた四つの基本動作をやりつづける。
「イテ、テ、テテ」
はじめは痛かった筋肉も五日たち六日たつと、あなふしぎ、それほど痛みもなくなって、近頃は膝も畳につくようになりました。ホントかいな。