巷談・ヘビを食う仙人
子供の頃、講談本を読んで、家出をして山に入ろうかと考えたことがある。宮本武蔵がまだ武者修行の頃、深山にわけ入ると、幽谷のほとりにきこりの住むような小屋があり、そこに眼光ケイケイ、白髪の老人がいたのである。武蔵はその老人を見ると、ヒョイ、ヒョイと渓流の小石を飛ぶ時もスキがなく、
(うーむ。面妖な。こ奴は何者。狐か狸か)
そこでスキあらば、打ちかからんと考えていた。
一宿一飯を乞うと老人は気持よく、小屋のなかに入れてくれた。が、一向にスキがない。だがその夜、晩飯の支度に囲炉裏にうつむいている老人に木刀をもって打ってかかると、鍋の蓋をとってパッと受けとめた。流石の武蔵も恐れ入りの助と両手をつき、老人の名を問うと、
「塚原卜伝」
と微笑しながら名のったと言う。
多少の違いはあるかも知れぬが大要、右のごとき話をば私のような年齢の者は吉川英治氏の『宮本武蔵』ではなく、親にかくれて講談本で読んだ記憶があるのである。
その話を読んだ時、子供心にも私はどこか山深くわけ入ればそんな白髪の老人にめぐりあえるかもしれぬとワクワクしたのを今でも憶えている。
山のなかに老人が住むという伝説は日本でも中国でも多い。その老人は講談では塚原ボクデンのような剣聖になるのだが、中国の本では悟りをひらいた仙人とか、俗臭を捨てた翁として語られているようである。これは我々の心のどこかにある夢であり、その夢を多くの芸術家は文に絵に描いてくれたのであった。
編集部のO君がその日、例によって例のごとくセンベイ布団のなかで世のため人のために一向ならぬことばかり考えている狐狸庵のところをたずね、
「仙人に会いませんか」
と言った時は、真実びっくりして、
「仙人? 仙人と会うのかな」
「さよう。八王子のずっと山のなかに仙人と言われる御仁が庵《いおり》を結んで住んでおるそうです。あんたのように俗臭ふんぷんたる男はそうした仙人と対面し、その爪の垢《あか》でも飲むべきですな」
狐狸庵、思わず膝をたたき、なるほど、もっとも、ぜひ、その仙人と話したいものであると答えた。私のまぶたの裏には一本の曲った杖をもち、白髪三千丈山道を歩く老人の姿が何とはなしに浮んだのである。
O君の話によると、この仙人は二、三年前から甲州街道よりそれた深山に住み、木を削って仏像を作り、深山の霊気、生命に合致するような生活を送っているのだそうである。
そこで八王子の人々は彼を呼ぶに「仙人」の名をもってすると言う。名は田中一刻。日本彫刻会会長、最近はこの人のことはテレビ、週刊誌でも語られているそうである。
五日ほどたったある日、八王子のその深山にのぼるには老骨とても耐えられぬ狐狸庵は東都某所に仙人においで願うことにした。
本来ならばこちらが伺うのが礼儀であるが、老いさらばえた身にはとても木をのぼり岩など這う力がなかったからである。姪を二人つれていった。姪たちも仙人さまを一生のうち一度、おがみたいと思ったのであろう。
待つことしばし。
O君が先にあらわれ、
「今、来られます」
と言う。私はかなり緊張して、非礼のないように便所に走り、用を足し、席に駆け戻ってきた。
するとやがて、羽織、はかまに、長い髪に顎髪をはやし、一見、五味康祐氏のようなお方が右手に沢山の紙をかかえながら現われた。これが八王子の仙人であった。仙人といえば先にも書いたように杖をもち白衣をまとい痩せた翁を想像していた私は少しびっくりして頭をさげた。
「普通はこんな恰好はせんのじゃがのウ、あんたに会うというので衣服を改めてきた」
そう言われて席につかれた。お年はと伺うと四十六歳。四十六にしては血色よく、髪くろぐろとして、とても私などの比ではない。
「なあに、テッペンのほうは薄うなっとるよ。なに血色がいい。それはマムシ酒を飲むからだ。効くねえ、あれは。今度、持ってきてやろう。あんたはクタびれとるね。わかるよ。マムシ酒のみなさい」
なんで山などに住まわれておるのですか。
「それは言わんでもわかるだろう。あんたも小説家ならな。私の彫刻は山にこもって自分に集中せねばならんからだ。私の彫刻はね、一本の木を使ってそれを削りつくる、寄木じゃないよ。日本では私一人。私一人しかやらん。山のなかで弟子たちと一緒に住んでおる」
弟子はほうぼうにおられるのですか。
「全世界にいるよ。弟子の数? 全世界で千八人」
もってきた紙づつみから御自分の写真、あるいは自分の写真と記事との載っている週刊誌などを出し、
「これは××誌に出た写真。日本テレビもうつしに来たね」
その写真をみると山小屋の上で日なたボッコする仙人、蛇をかじろうとする仙人、イタチをつかまえている仙人などの写真がある。
「私は東京にも家がある。女房? いますよ。子供? いるよ。女房は何も文句はいわん。東京のほかに八王子にも家がある。月の三分の二は山のほうに住む。食糧? これは山のものを食う。若芽などうまいね。見なさい、この英文の手紙」
写真の下から皮表紙のカバーに入れた英文の手紙を出され、
「私はベトナムで死んだ米国兵のため仏像を三体、作った。米国空軍にたのまれてね、その礼状がこれだ」
狐狸庵は英語のほうはカラキシわからぬので折角の英語の手紙もチンプンカンプン何が何やらわからないから話題を変えた。
若芽のほかにどんなものを食べていますか。
「蛇も食う、うまいね。なに? 蛇は食ったことがあるがまずいって? マムシを食ったか。マムシはうまいよ。主食はイモ・米。イモなんか畠にあるものをもろうて食う。八王子の農家じゃ仙人さんにと届けてくれるからね。見なさい。先年、ホテル・オータニで個展をやった。これがそのプログラム」
個展のプログラムをみせてくださる。
しかし私はプログラムを見せてもらうよりも仙人生活のほうをききたくて——そんなら食費はかからんでしょうな。
「いや。そうでもない。弟子たち十人で三万円ぐらい。味噌などは自家製だ。外人などは非常によろこぶねえ。えっ。味噌じゃない。私の作品をだ。ドンドン欲しいと言ってくる。しかし私は注文主がきまっておるから、その注文で作る」
そんなことより山小屋は御自分で作られたのですか。
「もろうたのだ。むかしそこに家があってね。捨ててあったのを持主がただでくれたのだ。どんな生活をしとるかって。弟子も私も朝おきると黙々と仕事だね。話などせん。飯は自分で粥を煮て食う。めったに話さん。この間、テレビの人が来た時、弟子の女の子が物を言わんかったら、あれは唖かと聞いとったが唖じゃない。皆、物を言わんのだ。さみしくないね。冬だって寝る時、布団は使わん。そのままで寝る。弟子たちもそうだよ。私は彫刻のほかに絵もかく。これがその下絵だ」
絵の話もいいけれど、仙人としての話はこれ以上はないだろうか。
山におられると寂しくないでしょうか。
「寂しくなんかないね。寂しいなんて思うている暇もない。弟子たちも寂しいなんて言わんね。それよりあんたにいつか仏像をやろう。私がベトナムで死んだ米国兵のために三体つくった仏像のひな型。この一つをやろう。私は仏像が専門だ。外人なんか、非常に悦んで求めていく」
私はだんだん、この方が仙人というよりは野武士の親方のような気がしてきた。仙人というのは枯れきった老人だが、このお方は逞しく、野心にみちている。とてもアクを落した翁のイメージではない。掌なども非常に厚い。腕に傷あとさえある。
その傷あとは?
「山で木を切るからだ」
その木はあなたのものですか。
「そうじゃない。人の木だ。しかし持主だって別に怒らない。みな理解してくれる」
あなたは仙人というより、野武士の親方みたいです。枯れておらんです。
「野武士の親方? 私が仙人みたいではない? あんた小説家のくせに物を知らんね。仙人というのは何もあなたのいうように枯れた老人を言うのではない」
本当ですか。私が多少、仙人について知っている知識では仙人とは仏教と道教のほうで使う言葉の筈ですが、いずれにしろ、穀物さえ食べぬほど人間世界と接触を断った人を言う。
ところが、あなたは米は召上る。魚も食べる、食べませんか。
「魚は食べる」
その上、マムシ酒は飲む、蛇さえ召上る。
「そうだ」
それなら、やっぱり仙人じゃないようです、と私は言いながら背後にいる姪たちにも、
「この方は仙人と言われている方だが仙人とみえるかね」
姪たちは悪いと思ったのか黙っているので、
「仙人よりは野武士の親玉みたいだろう」
と私が言うと、大きくうなずいた。
仙人、意外と照れた顔をして、
「ひでえなあ。しかし、そういう意味では私は仙人ではないな。いや。むしろ、みんなから仙人、仙人といわれて迷惑しとるんだ。だから私は町に出て酒も飲むよ。人間界とも大いに接触する。それでなきゃ、彫刻はでけん」
そうです。そうです。その通りです。
「だから、私は、今日、あんたと会うと聞いたから、山からおりて出てきたんだ。あんたのものを読んで、この人なら私をわかってくれると思ったからね。あんたなら私が仙人ではないと書いてくれると思ったからね」
そりゃ始めからふしぎに思いましたよ。世俗をすてた仙人がプログラムや英文の手紙や週刊誌をかかえて下界におりる筈はないし、枯れきった仙人ならジャーナリズムなど相手にする筈はないですもんなア。だから、あなたは仙人じゃない。
野武士の親分みたいであると思いましたわ。
「うむウ。そういえば、わが山に夏など、アベックがやって来る。いつか夜中に変な音がするから、俺あ弟子たちに武器をもって配置につけと言うたね……」
へえ、武器などあるのですか。
「彫刻をやるために色々な道具があるな。山の木を切るためにもナタなんか用意しとるぞ」
私はアベックたちに警告する。ナタでぶんなぐられたらタンコブだけではすまないぞ。君子、危うきに近よらずだ。
仙人はわかれぎわに、弟子が作った女体の像をくださった。アフリカで買った土産ものに少し似ている。
私はそれをもらって姪たちと一緒に車に乗った。
狐狸庵からは夕暮、大山、足柄、箱根の山々が見える。これらの山は西の方角にあるから冬の黄昏、特にこのように晴天の日がつづくと空は茜色にそまる。
むかし江戸時代、大山詣でという習慣があって町内の八ッさん、熊さんはこの大山詣でをやって藤沢で女郎と遊んで帰宅したそうである。
いわば江戸時代のハイキングだが、しかしその由来は西方浄土を拝むということからきているのであろう。
狐狸庵からこうした山をみるたびに、私も次第に俗っぽくなったここから離れ、あの山のなかに新しく庵を結ぼうかとさえ思うことがある。
八王子の仙人の話によると、山に住むだけで体の調子がちがうそうである。山イモ、若芽を食い、マムシ酒を飲み、スモッグなどこれきりもない新鮮そのものの空気を吸っておれば元気になるのも当り前だ。仙人の顔は実に血色がよかった。羨ましい限りである。