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一夜(1)
日期:2020-11-30 23:53  点击:312
 「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯ひげある人が二たび三たび微吟びぎんして、あとは思案の体ていである。灯ひに写る床柱とこばしらにもたれたる直なおき背せの、この時少しく前にかがんで、両手に抱いだく膝頭ひざがしらに険けわしき山が出来る。佳句かくを得て佳句を続つぎ能あたわざるを恨うらみてか、黒くゆるやかに引ける眉まゆの下より安からぬ眼の色が光る。
「描えがけども成らず、描けども成らず」と椽えんに端居はしいして天下晴れて胡坐あぐらかけるが繰り返す。兼ねて覚えたる禅語ぜんごにて即興なれば間に合わすつもりか。剛こわき髪を五分ぶに刈りて髯貯たくわえぬ丸顔を傾けて「描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし」と高らかに誦じゅし了おわって、からからと笑いながら、室へやの中なる女を顧かえりみる。
 竹籠たけかごに熱き光りを避けて、微かすかにともすランプを隔てて、右手に違い棚、前は緑り深き庭に向えるが女である。
「画家ならば絵にもしましょ。女ならば絹を枠わくに張って、縫いにとりましょ」と云いながら、白地の浴衣ゆかたに片足をそと崩くずせば、小豆皮あずきがわの座布団ざぶとんを白き甲が滑すべり落ちて、なまめかしからぬほどは艶えんなる居ずまいとなる。
「美しき多くの人の、美しき多くの夢を……」と膝ひざ抱いだく男が再び吟じ出すあとにつけて「縫いにやとらん。縫いとらば誰に贈らん。贈らん誰に」と女は態わざとらしからぬ様さまながらちょと笑う。やがて朱塗の団扇うちわの柄えにて、乱れかかる頬ほおの黒髪をうるさしとばかり払えば、柄えの先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫かおりの中に躍おどり入る。
「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑の渦うずが浮き上って、瞼まぶたにはさっと薄き紅くれないを溶とく。
「縫えばどんな色で」と髯あるは真面目まじめにきく。
「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする虹にじの糸、夜と昼との界さかいなる夕暮の糸、恋の色、恨うらみの色は無論ありましょ」と女は眼をあげて床柱とこばしらの方を見る。愁うれいを溶といて錬ねり上げし珠たまの、烈はげしき火には堪たえぬほどに涼しい。愁の色は昔むかしから黒である。
 隣へ通う路次ろじを境に植え付けたる四五本の檜ひのきに雲を呼んで、今やんだ五月雨さみだれがまたふり出す。丸顔の人はいつか布団ふとんを捨てて椽えんより両足をぶら下げている。「あの木立こだちは枝を卸おろした事がないと見える。梅雨つゆもだいぶ続いた。よう飽きもせずに降るの」と独ひとり言ごとのように言いながら、ふと思い出した体ていにて、吾わが膝頭ひざがしらを丁々ちょうちょうと平手をたてに切って敲たたく。「脚気かっけかな、脚気かな」
 残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話しの緒いとぐちをたぐる。
「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて夢にでも美くしき国へ行かねば」とこの世は汚けがれたりと云える顔つきである。「世の中が古くなって、よごれたか」と聞けば「よごれました」と※(「糸+丸」、第3水準1-89-90)扇がんせんに軽かろく玉肌ぎょっきを吹く。「古き壺つぼには古き酒があるはず、味あじわいたまえ」と男も鵞鳥がちょうの翼はねを畳たたんで紫檀したんの柄えをつけたる羽団扇はうちわで膝のあたりを払う。「古き世に酔えるものなら嬉うれしかろ」と女はどこまでもすねた体である。
 この時「脚気かな、脚気かな」としきりにわが足を玩もてあそべる人、急に膝頭をうつ手を挙あげて、叱しっと二人を制する。三人の声が一度に途切れる間をククーと鋭どき鳥が、檜の上枝うわえだを掠かすめて裏の禅寺の方へ抜ける。ククー。
「あの声がほととぎすか」と羽団扇を棄すててこれも椽側えんがわへ這はい出す。見上げる軒端のきばを斜めに黒い雨が顔にあたる。脚気を気にする男は、指を立てて坤ひつじさるの方かたをさして「あちらだ」と云う。鉄牛寺てつぎゅうじの本堂の上あたりでククー、ククー。
「一声ひとこえでほととぎすだと覚さとる。二声で好い声だと思うた」と再び床柱に倚よりながら嬉しそうに云う。この髯男は杜鵑ほととぎすを生れて初めて聞いたと見える。「ひと目見てすぐ惚ほれるのも、そんな事でしょか」と女が問をかける。別に恥はずかしと云う気色けしきも見えぬ。五分刈ごぶがりは向き直って「あの声は胸がすくよだが、惚れたら胸は痞つかえるだろ。惚れぬ事。惚れぬ事……。どうも脚気らしい」と拇指おやゆびで向脛むこうずねへ力穴ちからあなをあけて見る。「九仞きゅうじんの上に一簣いっきを加える。加えぬと足らぬ、加えると危あやうい。思う人には逢あわぬがましだろ」と羽団扇はうちわがまた動く。「しかし鉄片が磁石に逢おうたら?」「はじめて逢うても会釈えしゃくはなかろ」と拇指の穴を逆さかに撫なでて澄ましている。
「見た事も聞いた事もないに、これだなと認識するのが不思議だ」と仔細しさいらしく髯を撚ひねる。「わしは歌麻呂うたまろのかいた美人を認識したが、なんと画えを活いかす工夫はなかろか」とまた女の方を向く。「私わたしには――認識した御本人でなくては」と団扇のふさを繊ほそい指に巻きつける。「夢にすれば、すぐに活いきる」と例の髯が無造作むぞうさに答える。「どうして?」「わしのはこうじゃ」と語り出そうとする時、蚊遣火かやりびが消えて、暗きに潜ひそめるがつと出でて頸筋くびすじにあたりをちくと刺す。
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