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一夜(2)
日期:2020-11-30 23:53  点击:303

「灰が湿(しめ)っているのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋(ふた)をとると、赤い絹糸で括(くく)りつけた蚊遣灰が燻(いぶ)りながらふらふらと揺れる。東隣で琴(こと)と尺八を合せる音が紫陽花(あじさい)の茂みを洩(も)れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯(ひ)さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。
「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ返る。火をつけ直した蚊遣の煙が、筒に穿(うが)てる三つの穴を洩れて三つの煙となる。「今度はつきました」と女が云う。三つの煙りが蓋(ふた)の上に塊(かた)まって茶色の球(たま)が出来ると思うと、雨を帯びた風が颯(さっ)と来て吹き散らす。塊まらぬ間(うち)に吹かるるときには三つの煙りが三つの輪を描(えが)いて、黒塗に蒔絵(まきえ)を散らした筒の周囲(まわり)を遶(めぐ)る。あるものは緩(ゆる)く、あるものは疾(と)く遶る。またある時は輪さえ描く隙(ひま)なきに乱れてしまう。「荼毘(だび)だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊(か)の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾(と)うから知っている。
「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は傍(かたわ)らにある羊皮(ようひ)の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙(ぞうげ)を薄く削(けず)った紙(かみ)小刀(ナイフ)が挟(はさ)んである。巻(かん)に余って長く外へ食(は)み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖(さき)で触(さわ)ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気(しけ)てはたまらん」と眉(まゆ)をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂(たもと)の先を握って見て、「香(こう)でも焚(た)きましょか」と立つ。夢の話しはまた延びる。
 宣徳(せんとく)の香炉(こうろ)に紫檀(したん)の蓋があって、紫檀の蓋の真中には猿を彫(きざ)んだ青玉(せいぎょく)のつまみ手がついている。女の手がこの蓋にかかったとき「あら蜘蛛(くも)が」と云うて長い袖(そで)が横に靡(なび)く、二人の男は共に床(とこ)の方を見る。香炉に隣る白磁(はくじ)の瓶(へい)には蓮(はす)の花がさしてある。昨日(きのう)の雨を蓑(みの)着て剪(き)りし人の情(なさ)けを床(とこ)に眺(なが)むる莟(つぼみ)は一輪、巻葉は二つ。その葉を去る三寸ばかりの上に、天井から白金(しろがね)の糸を長く引いて一匹の蜘蛛(くも)が――すこぶる雅(が)だ。
「蓮の葉に蜘蛛下(くだ)りけり香を焚(た)く」と吟じながら女一度に数弁(すうべん)を攫(つか)んで香炉の裏(うち)になげ込む。「蛸(しょうしょう)懸(かかって)不揺(うごかず)、篆煙(てんえん)遶竹梁(ちくりょうをめぐる)」と誦(じゅ)して髯(ひげ)ある男も、見ているままで払わんともせぬ。蜘蛛も動かぬ。ただ風吹く毎に少しくゆれるのみである。


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