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永日小品(えいじつしょうひん)--昔
日期:2020-11-30 23:53  点击:654

ピトロクリの谷は秋の真下(ました)にある。十月の日が、眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たり起きたりしている。十月の日は静かな谷の空気を空の半途(はんと)で包(くる)んで、じかには地にも落ちて来ぬ。と云って、山向(やまむこう)へ逃げても行かぬ。風のない村の上に、いつでも落ちついて、じっと動かずに靄(かす)んでいる。その間に野と林の色がしだいに変って来る。酸(す)いものがいつの間にか甘くなるように、谷全体に時代がつく。ピトロクリの谷は、この時百年の昔(むか)し、二百年の昔にかえって、やすやすと寂(さ)びてしまう。人は世に熟(う)れた顔を揃(そろ)えて、山の背を渡る雲を見る。その雲は或時は白くなり、或時は灰色になる。折々は薄い底から山の地(じ)を透(す)かせて見せる。いつ見ても古い雲の心地がする。
 自分の家はこの雲とこの谷を眺めるに都合好く、小さな丘の上に立っている。南から一面に家の壁へ日があたる。幾年(いくねん)十月の日が射したものか、どこもかしこも鼠色(ねずみいろ)に枯れている西の端に、一本の薔薇(ばら)が這(は)いかかって、冷たい壁と、暖かい日の間に挟(はさ)まった花をいくつか着けた。大きな弁(べん)は卵色に豊かな波を打って、萼(がく)から翻(ひるが)えるように口を開(あ)けたまま、ひそりとところどころに静まり返っている。香(におい)は薄い日光に吸われて、二間の空気の裡(うち)に消えて行く。自分はその二間の中に立って、上を見た。薔薇は高く這い上(のぼ)って行く。鼠色の壁は薔薇の蔓(つる)の届かぬ限りを尽くして真直に聳(そび)えている。屋根が尽きた所にはまだ塔がある。日はそのまた上の靄(もや)の奥から落ちて来る。
 足元は丘がピトロクリの谷へ落ち込んで、眼の届く遥(はるか)の下が、平(ひら)たく色で埋(うず)まっている。その向う側の山へ上(のぼ)る所は層々と樺(かば)の黄葉(きば)が段々に重なり合って、濃淡の坂が幾階となく出来ている。明(あきら)かで寂(さ)びた調子が谷一面に反射して来る真中を、黒い筋が横に蜿(うね)って動いている。泥炭(でいたん)を含んだ渓水(たにみず)は、染粉(そめこ)を溶(と)いたように古びた色になる。この山奥に来て始めて、こんな流を見た。
 後(うしろ)から主人が来た。主人の髯(ひげ)は十月の日に照らされて七分がた白くなりかけた。形装(なり)も尋常ではない。腰にキルトというものを着けている。俥(くるま)の膝掛(ひざかけ)のように粗(あら)い縞(しま)の織物である。それを行灯袴(あんどんばかま)に、膝頭(ひざがしら)まで裁(た)って、竪(たて)に襞(ひだ)を置いたから、膝脛(ふくらはぎ)は太い毛糸の靴足袋(くつたび)で隠すばかりである。歩くたびにキルトの襞が揺れて、膝と股(もも)の間がちらちら出る。肉の色に恥を置かぬ昔の袴である。
 主人は毛皮で作った、小さい木魚(もくぎょ)ほどの蟇口(がまぐち)を前にぶら下げている。夜煖炉(だんろ)の傍(そば)へ椅子を寄せて、音のする赤い石炭を眺めながら、この木魚の中から、パイプを出す、煙草(たばこ)を出す。そうしてぷかりぷかりと夜長(よなが)を吹かす。木魚(もくぎょ)の名をスポーランと云う。
 主人といっしょに崖(がけ)を下りて、小暗(おぐら)い路(みち)に這入(はい)った。スコッチ・ファーと云う常磐木(ときわぎ)の葉が、刻(きざ)み昆布(こんぶ)に雲が這(は)いかかって、払っても落ちないように見える。その黒い幹をちょろちょろと栗鼠(りす)が長く太った尾を揺(ふ)って、駆(か)け上(のぼ)った。と思うと古く厚みのついた苔(こけ)の上をまた一匹、眸(ひとみ)から疾(と)く駆(か)け抜けたものがある。苔は膨(ふく)れたまま動かない。栗鼠の尾は蒼黒(あおぐろ)い地(じ)を払子(ほっす)のごとくに擦(す)って暗がりに入った。
 主人は横をふり向いて、ピトロクリの明るい谷を指(ゆび)さした。黒い河は依然としてその真中を流れている。あの河を一里半北へ溯(さかのぼ)るとキリクランキーの峡間(はざま)があると云った。
 高地人(ハイランダース)と低地人(ローランダース)とキリクランキーの峡間(はざま)で戦った時、屍(かばね)が岩の間に挟(はさま)って、岩を打つ水を塞(せ)いた。高地人と低地人の血を飲んだ河の流れは色を変えて三日の間ピトロクリの谷を通った。
 自分は明日(あす)早朝キリクランキーの古戦場を訪(と)おうと決心した。崖から出たら足の下に美しい薔薇(ばら)の花弁(はなびら)が二三片散っていた。


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