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永日小品(えいじつしょうひん)--声
日期:2020-12-13 23:58  点击:263


 豊三郎(とよさぶろう)がこの下宿へ越して来てから三日になる。始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の(かた)づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。(あく)る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所(いどころ)が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに(のこぎり)の音がする。
 豊三郎は(すわ)ったまま手を(のば)して障子(しょうじ)を明けた。すると、つい鼻の先で植木屋がせっせと梧桐(あおぎり)の枝をおろしている。可なり大きく延びた奴を、惜気(おしげ)もなく(また)の根から、ごしごし引いては、下へ落して行く内に、切口の白い所が目立つくらい(おびただ)しくなった。同時に(むな)しい空が遠くから窓にあつまるように広く見え出した。豊三郎は机に頬杖(ほおづえ)を突いて、何気(なにげ)なく、梧桐(ごとう)の上を高く離れた秋晴を眺めていた。
 豊三郎が眼を梧桐から空へ移した時は、急に大きな心持がした。その大きな心持が、しばらくして落ちついて来るうちに、(なつ)かしい故郷(ふるさと)の記憶が、点を打ったように、その一角にあらわれた。点は(はる)かの(むこう)にあるけれども、机の上に乗せたほど明らかに見えた。
 山の(すそ)に大きな藁葺(わらぶき)があって、村から二町ほど(のぼ)ると、路は自分の門の前で尽きている。門を這入(はい)る馬がある。(くら)の横に一叢(ひとむら)の菊を(ゆわ)いつけて、鈴を鳴らして、白壁の中へ隠れてしまった。日は高く()(むね)を照らしている。(うしろ)の山を、こんもり隠す松の幹がことごとく光って見える。(たけ)の時節である。豊三郎は机の上で今()ったばかりの茸の()()いだ。そうして、(とよ)、豊という母の声を聞いた。その声が非常に遠くにある。それで手に取るように明らかに聞える。――母は五年前に死んでしまった。
 豊三郎はふと驚いて、わが眼を動かした。すると先刻(さっき)見た梧桐(ごとう)の先がまた(ひとみ)に映った。延びようとする枝が、一所(ひとところ)()り詰められているので、(また)の根は、(こぶ)(うず)まって、見悪(みにく)いほど窮屈に力が()っている。豊三郎はまた急に、机の前に押しつけられたような気がした。梧桐を(へだ)てて、垣根の外を見下(みおろ)すと、(きた)ない長屋が三四軒ある。綿の出た蒲団(ふとん)が遠慮なく秋の日に照りつけられている。(そば)に五十余りの婆さんが立って、梧桐の先を見ていた。
 ところどころ(しま)の消えかかった着物の上に、細帯を一筋巻いたなりで、(とも)しい髪を、大きな(くし)のまわりに巻きつけて、茫然(ぼんやり)と、枝を()かした梧桐の頂辺(てっぺん)を見たまま立っている。豊三郎は婆さんの顔を見た。その顔は(あお)くむくんでいる。婆さんは()れぼったい(まぶち)の奥から細い眼を出して、(まぼ)しそうに豊三郎を見上げた。豊三郎は急に自分の眼を机の上に落した。
 三日目に豊三郎は花屋へ行って菊を買って来た。国の庭に咲くようなのをと思って、探して見たが見当らないので、やむをえず花屋のあてがったのを、そのまま三本ほど(わら)(くく)って貰って、徳利(とくり)のような花瓶(かびん)()けた。行李(こうり)の底から、帆足万里(ほあしばんり)の書いた小さい(じく)を出して、壁へ掛けた。これは先年帰省した時、装飾用のためにわざわざ持って来たものである。それから豊三郎は座蒲団(ざぶとん)の上へ坐って、しばらく軸と花を眺めていた。その時窓の前の長屋の方で、豊々(とよとよ)と云う声がした。その声が調子と云い、音色(ねいろ)といい、優しい故郷(ふるさと)の母に少しも違わない。豊三郎はたちまち窓の障子(しょうじ)をがらりと開けた。すると昨日(きのう)見た蒼ぶくれの婆さんが、落ちかかる秋の日を(ひたい)に受けて、十二三になる鼻垂小僧を手招きしていた。がらりと云う音がすると同時に、婆さんは例のむくんだ眼を(ひるが)えして下から豊三郎を見上げた。


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