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カーライル博物館(2)
日期:2021-01-10 23:12  点击:247

 文学者でチェルシーに縁故のあるものを()げると(むか)しはトマス・モア、(くだ)ってスモレット、なお下ってカーライルと同時代にはリ・ハントなどがもっとも著名である。ハントの家はカーライルの(じき)近傍で、現にカーライルがこの(いえ)に引き移った晩尋ねて来たという事がカーライルの記録に書いてある。またハントがカーライルの細君にシェレーの塑像(そぞう)を贈ったという事も知れている。このほかにエリオットのおった家とロセッチの住んだ(やしき)がすぐ(そば)の川端に向いた通りにある。しかしこれらは皆すでに(だい)がかわって現に人が這入(はい)っているから見物は出来ぬ。ただカーライルの旧廬(きゅうろ)のみは六ペンスを払えば何人(なんびと)でもまた何時(なんどき)でも随意に観覧が出来る。
 チェイン・ローは河岸端(かしっぱた)の往来を南に折れる小路でカーライルの家はその右側の中頃に()る。番地は二十四番地だ。
 毎日のように川を(へだ)てて霧の中にチェルシーを(なが)めた余はある朝ついに橋を渡ってその有名なる(いお)りを(たた)いた。
 庵りというと物寂(ものさ)びた感じがある。少なくとも瀟洒(しょうしゃ)とか風流とかいう念と(ともな)う。しかしカーライルの(いおり)はそんな(やに)っこい華奢(きゃしゃ)なものではない。往来(おうらい)から(ただ)ちに戸が(たた)けるほどの道傍(みちばた)に建てられた四階(づくり)の真四角な家である。
 出張った所も引き込んだ所もないのべつに真直(まっすぐ)に立っている。まるで大製造場の煙突の根本を切ってきてこれに天井を張って窓をつけたように見える。
 これが彼が北の田舎(いなか)から始めて倫敦(ロンドン)へ出て来て探しに探し抜いて漸々(ようよう)の事で探し()てた家である。彼は西を探し南を探しハンプステッドの北まで探してついに恰好(かっこう)の家を探し出す事が出来ず、最後にチェイン・ローへ来てこの家を見てもまだすぐに(とり)きめるほどの勇気はなかったのである。四千万の愚物(ぐぶつ)と天下を(ののし)った彼も住家(すみか)には閉口したと見えて、その愚物の中に当然勘定せらるべき妻君へ向けて委細を報知してその意向を確めた。細君の答に「御申越の借家(しゃくや)は二軒共不都合もなき様被存(ぞんぜられ)候えば私倫敦へ(のぼ)候迄(そろまで)双方共御明け置願度(おきねがいたく)()し又それ迄に取極め(そろ)必要相生じ候節(そろせつ)は御一存にて如何(いかが)とも御取計らい被下度候(くだされたくそろ)とあった。カーライルは書物の上でこそ自分(ひと)りわかったような事をいうが、家をきめるには細君の助けに依らなくては駄目と覚悟をしたものと見えて、夫人の上京するまで手を(つか)ねて待っていた。四五日(しごんち)すると夫人が来る。そこで今度は二人してまた東西南北を()け廻った揚句の(はて)やはりチェイン・ローが()いという事になった。両人(ふたり)がここに引き越したのは千八百三十四年の六月十日で、引越の途中に下女の持っていたカナリヤが(かご)の中で(さえず)ったという事まで知れている。夫人がこの(いえ)(えら)んだのは(おおい)に気に入ったものかほかに相当なのがなくてやむをえなんだのか、いずれにもせよこの煙突のごとく四角な家は年に三百五十円の家賃をもってこの新世帯の夫婦を迎えたのである。カーライルはこのクロムウェルのごときフレデリック大王のごときまた製造場の煙突のごとき家の中でクロムウェルを著わしフレデリック大王を著わしディスレリーの周旋(しゅうせん)にかかる年給を(しりぞ)けて四角四面に暮したのである。


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