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カーライル博物館(6)
日期:2021-01-10 23:20  点击:221

 声。英国においてカーライルを苦しめたる声は独逸(ドイツ)においてショペンハウアを苦しめたる声である。ショペンハウア云う。「カントは活力論を(あらわ)せり、余は(かえ)って活力を(とむら)う文を草せんとす。物を打つ音、物を(たた)く音、物の(ころ)がる音は皆活力の濫用にして余はこれがために日々苦痛を受くればなり。音響を聞きて何らの感をも起さざる多数の人我説(わがせつ)をきかば笑うべし。されど世に理窟(りくつ)をも感ぜず思想をも感ぜず詩歌(しいか)をも感ぜず美術をも感ぜざるものあらば、そは正にこの(やから)なる事を忘るるなかれ。彼らの頭脳の組織は(そこう)にして(さと)り鈍き事その源因たるは疑うべからず」カーライルとショペンハウアとは実は十九世紀の好一対(こういっつい)である。余がかくのごとく回想しつつあった時に例の婆さんがどうです下りましょうかと(うな)がす。
 一層を(くだ)るごとに下界に近づくような心持ちがする。冥想(めいそう)の皮が()げるごとく感ぜらるる。階段を降り切って最下の欄干に()って通りを(なが)めた時にはついに依然たる一個の俗人となり(おわ)ってしまった。案内者は平気な顔をして(くりや)を御覧なさいという。厨は往来(おうらい)よりも下にある。今余が立ちつつある所よりまた五六段の階を下らねばならぬ。これは今案内をしている婆さんの住居(すまい)になっている。隅に大きな(かまど)がある。婆さんは例の朗読調をもって「千八百四十四年十月十二日有名なる詩人テニソンが初めてカーライルを訪問した時彼ら両人はこの竈の前に対坐して互に煙草(たばこ)(くゆ)らすのみにて二時間の間一言(ひとこと)(まじ)えなかったのであります」という。天上に()って音響を(いと)いたる彼は地下に入っても沈黙を愛したるものか。
 最後に勝手口から庭に案内される。例の四角な平地を見廻して見ると木らしい木、草らしい草は少しも見えぬ。婆さんの話しによると昔は桜もあった、葡萄(ぶどう)もあった。胡桃(くるみ)もあったそうだ。カーライルの細君はある年二十五銭ばかりの胡桃を得たそうだ。婆さん云う「庭の東南の隅を去る五尺余の地下にはカーライルの愛犬ニロが葬むられております。ニロは千八百六十年二月一日に死にました。墓標も当時は存しておりましたが惜しいかなその後取払われました」と中々(くわ)しい。
 カーライルが麦藁帽(むぎわらぼう)阿弥陀(あみだ)(かぶ)って寝巻姿のまま(くわ)煙管(ぎせる)逍遥(しょうよう)したのはこの庭園である。夏の最中(もなか)には蔭深き敷石の上にささやかなる天幕(テント)を張りその下に机をさえ出して余念もなく述作に従事したのはこの庭園である。星(あきら)かなる()最後の一ぷくをのみ終りたる後、彼が空を仰いで「嗚呼(ああ)余が最後に(なんじ)を見るの時は瞬刻の(のち)ならん。全能の神が造れる無辺大の劇場、眼に()る無限、手に()るる無限、これもまた我が眉目を(かす)めて去らん。しかして余はついにそを見るを得ざらん。わが力を致せるや虚ならず、知らんと欲するや切なり。しかもわが知識はただかくのごとく()なり」と叫んだのもこの庭園である。
 余は婆さんの労に(むく)ゆるために婆さんの(てのひら)の上に一片(いっぺん)の銀貨を()せた。ありがとうと云う声さえも朗読的であった。一時間の後倫敦(ロンドン)(ちり)(すす)と車馬の音とテームス河とはカーライルの家を別世界のごとく遠き(かた)へと(へだ)てた。


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