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草枕 五 (3)
日期:2021-02-07 23:56  点击:347

「御嬢さんが、どうとか、したところで頭垢が飛んで、首が抜けそうになったっけ」
「違(ちげえ)ねえ、がんがらがんだから、からっきし、話に締りがねえったらねえ。――そこでその坊主が逆(のぼ)せちまって……」
「その坊主たあ、どの坊主だい」
「観海寺(かんかいじ)の納所坊主(なっしょぼうず)がさ……」
「納所(なっしょ)にも住持(じゅうじ)にも、坊主はまだ一人も出て来ないんだ」
「そうか、急勝(せっかち)だから、いけねえ。苦味走(にがんばし)った、色の出来そうな坊主だったが、そいつが御前(おまえ)さん、レコに参っちまって、とうとう文(ふみ)をつけたんだ。――おや待てよ。口説(くどい)たんだっけかな。いんにゃ文だ。文に違(ちげ)えねえ。すると――こうっと――何だか、行(い)きさつが少し変だぜ。うん、そうか、やっぱりそうか。するてえと奴(やっこ)さん、驚ろいちまってからに……」
「誰が驚ろいたんだい」
「女がさ」
「女が文を受け取って驚ろいたんだね」
「ところが驚ろくような女なら、殊勝(しお)らしいんだが、驚ろくどころじゃねえ」
「じゃ誰が驚ろいたんだい」
「口説た方がさ」
「口説ないのじゃないか」
「ええ、じれってえ。間違ってらあ。文(ふみ)をもらってさ」
「それじゃやっぱり女だろう」
「なあに男がさ」
「男なら、その坊主だろう」
「ええ、その坊主がさ」
「坊主がどうして驚ろいたのかい」
「どうしてって、本堂で和尚(おしょう)さんと御経を上げてると、突然(いきなり)あの女が飛び込んで来て――ウフフフフ。どうしても狂印(きじるし)だね」
「どうかしたのかい」
「そんなに可愛(かわい)いなら、仏様の前で、いっしょに寝ようって、出し抜けに、泰安(たいあん)さんの頸(くび)っ玉(たま)へかじりついたんでさあ」
「へええ」
「面喰(めんくら)ったなあ、泰安さ。気狂(きちげえ)に文をつけて、飛んだ恥を掻(か)かせられて、とうとう、その晩こっそり姿を隠して死んじまって……」
「死んだ?」
「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」
「何とも云えない」
「そうさ、相手が気狂じゃ、死んだって冴(さ)えねえから、ことによると生きてるかも知れねえね」
「なかなか面白い話だ」
「面白いの、面白くないのって、村中大笑いでさあ。ところが当人だけは、根(ね)が気が違ってるんだから、洒唖洒唖(しゃあしゃあ)して平気なもんで――なあに旦那のようにしっかりしていりゃ大丈夫ですがね、相手が相手だから、滅多(めった)にからかったり何(なん)かすると、大変な目に逢いますよ」
「ちっと気をつけるかね。ははははは」
 生温(なまぬる)い磯(いそ)から、塩気のある春風(はるかぜ)がふわりふわりと来て、親方の暖簾(のれん)を眠(ねむ)たそうに煽(あお)る。身を斜(はす)にしてその下をくぐり抜ける燕(つばめ)の姿が、ひらりと、鏡の裡(うち)に落ちて行く。向うの家(うち)では六十ばかりの爺さんが、軒下に蹲踞(うずく)まりながら、だまって貝をむいている。かちゃりと、小刀があたるたびに、赤い味(み)が笊(ざる)のなかに隠れる。殻(から)はきらりと光りを放って、二尺あまりの陽炎(かげろう)を向(むこう)へ横切る。丘のごとくに堆(うずた)かく、積み上げられた、貝殻は牡蠣(かき)か、馬鹿(ばか)か、馬刀貝(まてがい)か。崩(くず)れた、幾分は砂川(すながわ)の底に落ちて、浮世の表から、暗(く)らい国へ葬られる。葬られるあとから、すぐ新しい貝が、柳の下へたまる。爺さんは貝の行末(ゆくえ)を考うる暇さえなく、ただ空(むな)しき殻を陽炎(かげろう)の上へ放(ほう)り出す。彼(か)れの笊(ざる)には支(ささ)うべき底なくして、彼れの春の日は無尽蔵に長閑(のど)かと見える。


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