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草枕 十一(5)
日期:2021-02-23 04:34  点击:477

「わしにも入らんがな。わしはまだ巡査の厄介(やっかい)になった事がない」
「そうでしょう」
「しかし、いくら警察が屁の勘定をしたてて、構わんがな。()ましていたら。自分にわるい事がなけりゃ、なんぼ警察じゃて、どうもなるまいがな」
「屁くらいで、どうかされちゃたまりません」
「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑(ぞうふ)をさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済むようになる」
「画工になり澄ませば、いつでもそうなれます」
「それじゃ画工になり澄したらよかろ」
「屁の勘定をされちゃ、なり切れませんよ」
「ハハハハ。それ御覧。あの、あなたの(とま)っている、志保田の御那美さんも、嫁に()って帰ってきてから、どうもいろいろな事が気になってならん、ならんと云うてしまいにとうとう、わしの所へ(ほう)を問いに来たじゃて。ところが近頃はだいぶ出来てきて、そら、御覧。あのような(わけ)のわかった女になったじゃて」
「へええ、どうもただの女じゃないと思いました」
「いやなかなか機鋒(きほう)(する)どい女で――わしの所へ修業に来ていた泰安(たいあん)と云う若僧(にゃくそう)も、あの女のために、ふとした事から大事(だいじ)窮明(きゅうめい)せんならん因縁(いんねん)逢着(ほうちゃく)して――今によい智識(ちしき)になるようじゃ」
 静かな庭に、松の影が落ちる、遠くの海は、空の光りに(こた)うるがごとく、応えざるがごとく、有耶無耶(うやむや)のうちに(かす)かなる、耀(かがや)きを放つ。漁火(いさりび)は明滅す。
「あの松の影を御覧」
奇麗(きれい)ですな」
「ただ奇麗かな」
「ええ」
「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」
 茶碗に余った渋茶を飲み干して、糸底(いとぞこ)を上に、茶托(ちゃたく)へ伏せて、立ち上る。
「門まで送ってあげよう。りょううねええん。御客が御帰(おかえり)だぞよ」
 送られて、庫裏(くり)を出ると、鳩がくううくううと鳴く。
「鳩ほど可愛いものはない、わしが、手をたたくと、みな飛んでくる。呼んで見よか」
 月はいよいよ明るい。しんしんとして、木蓮(もくれん)幾朶(いくだ)雲華(うんげ)空裏(くうり)げている。(けつりょう)たる春夜(しゅんや)真中(まなか)に、和尚ははたと(たなごころ)()つ。声は風中(ふうちゅう)に死して一羽の鳩も下りぬ。
「下りんかいな。下りそうなものじゃが」
 了念は余の顔を見て、ちょっと笑った。和尚は鳩の眼が夜でも見えると思うているらしい。気楽なものだ。
 山門の所で、余は二人に別れる。見返えると、大きな丸い影と、小さな丸い影が、石甃(いしだたみ)の上に落ちて、前後して庫裏の方に消えて行く。


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