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虞美人草 一(2)
日期:2021-03-09 23:56  点击:310

「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼の角(かど)から斜(なな)めに相手を見下(みおろ)した。
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の洋杖(ステッキ)を、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるや否(いな)や、歩行(ある)き出した。瘠(や)せた男も手巾(ハンケチ)を袂(たもと)に収めて歩行き出す。
「今日は山端(やまばな)の平八茶屋(へいはちぢゃや)で一日(いちんち)遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端(はんぱ)になるばかりだ。元来(がんらい)頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
 瘠(や)せた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく喋舌(しゃべ)り続ける。
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも見損(みそこな)ってしまう。連(つれ)こそいい迷惑だ」
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか見当(けんとう)がつかんじゃないか」
「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それ見るがいい」
「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。瘠(や)せた男は無言のままあとに後(おく)れてしまう。
 春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫(つら)ぬいて、煙(けぶ)る柳の間から、温(ぬく)き水打つ白き布(ぬの)を、高野川(たかのがわ)の磧(かわら)に数え尽くして、長々と北にうねる路(みち)を、おおかたは二里余りも来たら、山は自(おのず)から左右に逼(せま)って、脚下に奔(はし)る潺湲(せんかん)の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更(ふ)けたるを、山を極(きわ)めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の裾(すそ)を縫(ぬ)うて、暗き陰に走る一条(ひとすじ)の路に、爪上(つまあが)りなる向うから大原女(おはらめ)が来る。牛が来る。京の春は牛の尿(いばり)の尽きざるほどに、長くかつ静かである。


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