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虞美人草 一(6)
日期:2021-03-09 23:56  点击:309

「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう後足(あとあし)で石を転(ころ)がしてはいかん。後(あと)から尾(つ)いて行くものが剣呑(けんのん)だ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」と甲野さんは、がさりと音を立てて枯薄(かれすすき)の中へ仰向(あおむ)けに倒れた。
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号を唱(とな)えるが、山登りはから駄目だね」と宗近君は例の桜の杖(つえ)で、甲野さんの寝(ね)ている頭の先をこつこつ敲(たた)く。敲くたびに杖の先が薄を薙(な)ぎ倒してがさがさ音を立てる。
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
「反吐(へど)が出そうだ」
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも一(ひ)と休息(やすみ)仕(つかまつ)ろう」
 甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子も傘(かさ)も坂道に転がしたまま、仰向(あおむ)けに空を眺(なが)めている。蒼白(あおじろ)く面高(おもだか)に削(けず)り成(な)せる彼の顔と、無辺際(むへんざい)に浮き出す薄き雲の然(ゆうぜん)と消えて入る大いなる天上界(てんじょうかい)の間には、一塵の眼を遮(さえ)ぎるものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向う彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。
 宗近君は米沢絣(よねざわがすり)の羽織を脱いで、袖畳(そでだた)みにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う間(ま)に諸肌(もろはだ)を脱いだ。下から袖無(ちゃんちゃん)が露(あら)われる。袖無の裏から、もじゃもじゃした狐(きつね)の皮が食(は)み出している。これは支那へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。千羊(せんよう)の皮は一狐(いっこ)の腋(えき)にしかずと云って、君はいつでもこの袖無を一着している。その癖裏に着けた狐の皮は斑(まだら)にほうけて、むやみに脱落するところをもって見ると、何でもよほど性(たち)の悪い野良狐(のらぎつね)に違ない。
「御山(おやま)へ御登(おあが)りやすのどすか、案内しまほうか、ホホホ妙(けったい)な所(とこ)に寝ていやはる」とまた目暗縞(めくらじま)が下りて来る。


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