日语学习网
虞美人草 二(4)
日期:2021-03-09 23:56  点击:302

「え?」と小野さんは俄然(がぜん)として我に帰る。空を(かす)める子規(ほととぎす)の、()も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動ける(あや)しき色は、()く収まって、美くしい手は膝頭(ひざがしら)に乗っている。脈打(みゃくう)つとさえ思えぬほどに静かに乗っている。
 ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、恋々(れんれん)と遠のく(あと)を追うて、小野さんの心は杳窕(ようちょう)の境に(いざな)われて、二千年のかなたに引き寄せらるる。
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息(ためいき)の恋じゃありません。暴風雨(あらし)の恋、(こよみ)にも()っていない大暴雨(おおあらし)の恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を()ると紫色の血が出るというのですか」
「恋が(おこ)ると九寸五分が紫色に(ひか)ると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
沙翁(シェクスピヤ)()いた所を(わたし)が評したのです。――安図尼(アントニイ)羅馬(ロウマ)でオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の報道(しらせ)を持って来た時に――クレオパトラの……」
「紫が嫉妬(しっと)で濃く染まったんでしょう」
「紫が埃及(エジプト)の日で()げると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う()もなく長い(そで)が再び(ひらめ)いた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔を(なが)めている。
「そこでクレオパトラがどうしました」と(おさ)えた女は再び手綱(たづな)(ゆる)める。小野さんは()け出さなければならぬ。
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、(なじ)り方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のように(せい)が高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を追窮(ついきゅう)します。……」


分享到:

顶部
06/09 19:38