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虞美人草 四 (5)
日期:2021-03-29 23:49  点击:287

 二階の書生がヴァイオリンを鳴らし始めた。小野さんも近日うちにヴァイオリンの稽古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は呑気(のんき)(うらやま)しいと思う。――椿の花片(はなびら)がまた一つ落ちた。
 一輪挿(いちりんざし)を持ったまま障子を()けて椽側(えんがわ)へ出る。花は庭へ()てた。水もついでにあけた。花活(はないけ)は手に持っている。実は花活もついでに棄てるところであった。花活を持ったまま椽側に立っている。(ひのき)がある。(へい)がある。(むこう)に二階がある。乾きかけた庭に雨傘が()してある。(じゃ)の目の黒い(ふち)落花(らっか)二片(ふたひら)(へばり)ついている。その他いろいろある。ことごとく無意義にある。みんな器械的である。
 小野さんは重い足を引き()ってまた部屋のなかへ這入(はい)って来た。坐らずに机の前に立っている。過去の節穴(ふしあな)がすうと()いて昔の歴史が細長く遠くに見える。暗い。その暗いなかの一点がぱっと燃え出した。動いて来る。小野さんは急に腰を(かが)めて手を伸ばすや否や封を切った。

「拝啓柳暗花明(りゅうあんかめい)の好時節と相成候処いよいよ御壮健奉賀(がしたてまつり)(そうろう)。小生も不相変(あいかわらず)頑強(がんきょう)小夜(さよ)も息災に候えば、乍憚(はばかりながら)御休神可被下(くださるべく)(そうろう)。さて旧臘(きゅうろう)中一寸申上候東京表へ転住の義、其後(そのご)色々の事情にて(はか)どりかね候所、此程に至り諸事好都合に(らち)あき、いよいよ近日中に断行の運びに至り候はずにつき左様御承知被下度(くだされたく)(そうろう)。二十年(ぜん)に其地を引き払い候儘、両度の上京に、五六日の逗留(とうりゅう)の外は、全く故郷の消息に(うと)く、万事不案内に候えば到着の上は定めて御厄介の事と存候。


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