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虞美人草 五 (6)
日期:2021-03-29 23:50  点击:347
 岸は二三度うねりを打って、音なき水を、停(とど)まる暇なきに、前へ前へと送る。重(かさ)なる水の蹙(しじま)って行く、頭(こうべ)の上には、山城(やましろ)を屏風(びょうぶ)と囲う春の山が聳(そび)えている。逼(せま)りたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る日の、たちまちに影を失うかと思えば舟は早くも山峡(さんきょう)に入る。保津の瀬はこれからである。
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭の体(たい)を透(す)かして岩と岩の逼(せま)る間を半丁の向(むこう)に見る。水はごうと鳴る。
「なるほど」と甲野さんが、舷(ふなばた)から首を出した時、船ははや瀬の中に滑(すべ)り込んだ。右側の二人はすわと波を切る手を緩(ゆる)める。櫂(かい)は流れて舷に着く。舳(へさき)に立つは竿(さお)を横(よこた)えたままである。傾(かた)むいて矢のごとく下る船は、どどどと刻(きざ)み足に、船底に据えた尻に響く。壊(こ)われるなと気がついた時は、もう走る瀬を抜けだしていた。
「あれだ」と宗近君が指(ゆびさ)す後(うし)ろを見ると、白い泡(あわ)が一町ばかり、逆(さ)か落しに噛(か)み合って、谷を洩(も)る微(かす)かな日影を万顆(ばんか)の珠(たま)と我勝(われがち)に奪い合っている。
「壮(さか)んなものだ」と宗近君は大いに御意(ぎょい)に入った。
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
 船頭は至極(しごく)冷淡である。松を抱く巌(いわ)の、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬように、櫂を動かし来り、棹(さお)を操(あやつ)り去る。通る瀬はさまざまに廻(めぐ)る。廻るごとに新たなる山は当面に躍(おど)り出す。石山、松山、雑木山(ぞうきやま)と数うる遑(いとま)を行客(こうかく)に許さざる疾(と)き流れは、船を駆(か)ってまた奔湍(ほんたん)に躍り込む。
 大きな丸い岩である。苔(こけ)を畳む煩(わずら)わしさを避けて、紫(むらさき)の裸身(はだかみ)に、撃(う)ちつけて散る水沫(しぶき)を、春寒く腰から浴びて、緑り崩(くず)るる真中に、舟こそ来れと待つ。舟は矢(や)も楯(たて)も物かは。一図(いちず)にこの大岩を目懸けて突きかかる。渦捲(うずま)いて去る水の、岩に裂かれたる向うは見えず。削(けず)られて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたよりは不可思議の波の行末(ゆくえ)である。岩に突き当って砕けるか、捲(ま)き込まれて、見えぬ彼方(かなた)にどっと落ちて行くか、――舟はただまともに進む。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波を呑(の)む岩の太腹に潜(もぐ)り込む。横たえた竿は取り直されて、肩より高く両の手が揚(あ)がると共に舟はぐうと廻った。この獣奴(けだものめ)と突き離す竿の先から、岩の裾(すそ)を尺も余さず斜めに滑って、舟は向うへ落ち出した。
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。


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