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虞美人草 七 (6)
日期:2021-04-10 23:59  点击:283
 明かなる夢は輪を描(えが)いて胸のうちに回(めぐ)り出す。死したる夢ではない。五年の底から浮き刻(ぼ)りの深き記憶を離れて、咫尺(しせき)に飛び上がって来る。女はただ眸(ひとみ)を凝(こ)らして眼前に逼(せま)る夢の、明らかに過ぐるほどの光景を右から、左から、前後上下から見る。夢を見るに心を奪われたる人は、老いたる親の髯(ひげ)を忘れる。小夜子は口をきかなくなった。
「小野は新橋まで迎(むかえ)にくるだろうね」
「いらっしゃるでしょうとも」
 夢は再び躍(おど)る。躍るなと抑えたるまま、夜を込めて揺られながらに、暗きうちを駛(か)ける。老人は髯から手を放す。やがて眼を眠(ねむ)る。人も犬も草も木も判然(はき)と映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、転(まわ)りつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明かである。小夜子はこの明かなる世界を抱(いだ)いて眠についた。
 長い車は包む夜を押し分けて、やらじと逆(さか)う風を打つ。追い懸くる冥府(よみ)の神を、力ある尾に敲(たた)いて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青く煙(けぶ)る向うが一面に競(せ)り上がって来る。茫々(ぼうぼう)たる原野の自(おのず)から尽きず、しだいに天に逼(せま)って上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、眼(まなこ)を半天に走らす時、日輪の世は明けた。
 神の代(よ)を空に鳴く金鶏(きんけい)の、翼(つばさ)五百里なるを一時に搏(はばたき)して、漲(みな)ぎる雲を下界に披(ひら)く大虚の真中(まんなか)に、朗(ほがらか)に浮き出す万古(ばんこ)の雪は、末広になだれて、八州の野(や)を圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫(そうぼう)の裡(うち)に、腰から下を埋(うず)めている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、紫(むらさき)の襞(ひだ)と藍(あい)の襞とを斜(なな)めに畳んで、白き地(じ)を不規則なる幾条(いくすじ)に裂いて行く。見上ぐる人は這(は)う雲の影を沿うて、蒼暗(あおぐら)き裾野(すその)から、藍、紫の深きを稲妻(いなずま)に縫いつつ、最上の純白に至って、豁然(かつぜん)として眼が醒(さ)める。白きものは明るき世界にすべての乗客を誘(いざな)う。


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