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虞美人草 九 (6)
日期:2021-04-10 23:59  点击:278
「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのは歳(とし)ばかりで、いたずらに育った縞柄(しまがら)と、用い古るした琴(こと)が恨(うら)めしい。琴は蔽(おい)のまま床の間に立て掛けてある。
「私はだいぶ変りましたろう」
「見違えるように立派に御成りです事」
「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように……」
 小夜子は何と答えていいか分らない。膝(ひざ)に手を置いたまま、下を向いている。小さい耳朶(みみたぶ)が、行儀よく、鬢(びん)の末を潜(くぐ)り抜けて、頬(ほお)と頸(くび)の続目(つぎめ)が、暈(ぼか)したように曲線を陰に曳(ひ)いて去る。見事な画(え)である。惜しい事に真向(まむき)に座(すわ)った小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の退(ひ)き具合、これほどの光線(ひ)に、これほどの色の付き具合は滅多(めった)に見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げの踵(かかと)を、地に滅(め)り込むほどに回(めぐ)らして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは真向(まむき)に坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先に翻(ひるが)える袖(そで)の香(か)が、濃き紫(むらさき)の眉間(みけん)を掠(かす)めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。
「また来ましょう」と背広(せびろ)の胸を合せる。
「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。
「また来ます。御帰りになったら、どうぞ宜(よろ)しく」
「あの……」と口籠(くちごも)っている。
 相手は腰を浮かしながら、あののあとを待ち兼ねる。早くと急(せ)き立てられる気がする。近寄れぬものはますます離れて行く。情ない。
「あの……父が……」
 小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出し悪(にく)くなる。
「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは没義道(もぎどう)に離れて行く。未練も会釈(えしゃく)もなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は惘然(もうぜん)として、椽(えん)に近く坐った。


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