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虞美人草 十 (10)
日期:2021-04-10 23:59  点击:262
 紺の糸を(くちびる)湿(しめ)して、指先に(とが)らすは、射損(いそく)なった針孔を通す女の(はかりごと)である。
「糸公、誰か御客があるのかい」
「ええ、甲野の阿母(おっかさん)御出(おいで)よ」
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい(かな)わない」
「でも(ひん)がいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」
「そう兄さんが(きらい)じゃ、世話の仕栄(しばえ)がない」
「世話もしない癖に」
「ハハハハ実は狐の袖無(ちゃんちゃん)の御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や向島(むこうじま)は駄目だが荒川(あらかわ)は今が(さかり)だよ。荒川から萱野(かやの)へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に沢山(たんと)はないぜ」
「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指を()してちょうだい」
「そうして裁縫(しごと)を勉強すると、今に御嫁に行くときに金剛石(ダイヤモンド)指環(ゆびわ)を買ってやる」
(うま)いのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」
「あるのって、――今はないさ」
「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」
「えらいからさ」
「まあ――どこかそこいらに(はさみ)はなくって」
「その蒲団(ふとん)の横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。洒落(しゃれ)かい」
「これ? 奇麗(きれい)でしょう。縮緬(ちりめん)御申(おさる)さん」


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