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虞美人草 十三 (2)
日期:2021-04-17 23:58  点击:357

 同時に杖の音(ね)はとまる。甲野さんは帽の廂(ひさし)の下から女の顔を久しぶりのように見た。女は急に眼をはずして、細い杖の先を眺める。杖の先から熱いものが上(のぼ)って、顔がぽうとほてる。油を抜いて、なすがままにふくらました髪を、落すがごとく前に、糸子は腰を折った。
「御出(おいで)?」と甲野さんは言葉の尻を上げて簡単に聞く。
「今ちょっと」と答えたのみで、苦のない二重瞼(ふたえまぶた)に愛嬌(あいきょう)の波が寄った。
「御留守ですか。――阿爺(おとっ)さんは」
「父は謡(うたい)の会で朝から出ました」
「そう」と男は長い体躯(からだ)を、半分回して、横顔を糸子の方へ向けた。
「まあ、御這入(おはいり)、――兄はもう帰りましょう」
「ありがとう」と甲野さんは壁に物を云う。
「どうぞ」と誘い込むように片足を後(あと)へ引いた。着物はあらい縞(しま)の銘仙(めいせん)である。
「ありがとう」
「どうぞ」
「どこへ行ったんです」と甲野さんは壁に向けた顔を、少し女の方へ振り直す。後(うしろ)から掠(かす)めて来る日影に、蒼(あお)い頬が、気のせいか、昨日(きのう)より少し瘠(こ)けたようだ。
「散歩でしょう」と女は首を傾けて云う。
「私(わたし)も今散歩した帰りだ。だいぶ歩いて疲れてしまって……」
「じゃ、少し上がって休んでいらっしゃい。もう帰る時分ですから」
 話は少しずつ延びる。話の延びるのは気の延びた証拠である。甲野さんは粗柾(あらまさ)の俎下駄(まないたげた)を脱いで座敷へ上がる。
 長押作(なげしづく)りに重い釘隠(くぎかくし)を打って、動かぬ春の床(とこ)には、常信(つねのぶ)の雲竜(うんりゅう)の図を奥深く掛けてある。薄黒く墨を流した絹の色を、角(かく)に取り巻く紋緞子(もんどんす)の藍(あい)に、寂(さ)びたる時代は、象牙(ぞうげ)の軸さえも落ちついている。唐獅子(からじし)を青磁(せいじ)に鋳(い)る、口ばかりなる香炉(こうろ)を、どっかと据(す)えた尺余の卓は、木理(はだ)に光沢(つや)ある膏(あぶら)を吹いて、茶を紫に、紫を黒に渡る、胡麻(ごま)濃(こま)やかな紫檀(したん)である。


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