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虞美人草 十四 (20)
日期:2021-04-20 00:16  点击:354
 小野さんの靴は、湿(しめ)っぽい光を憚(はば)かるごとく、地に落す踵(かかと)を洋袴(ズボン)の裾(すそ)に隠して、小路(こうじ)を蕎麦屋(そばや)の行灯(あんどん)まで抜け出して左へ折れた。往来は人の香(におい)がする。地にく影は長くはない。丸まって動いて来る。こんもりと揺(ゆ)れて去る。下駄の音は朧(おぼろ)に包まれて、霜(しも)のようには冴(さ)えぬ。撫(な)でて通る電信柱に白い模様が見えた。すかす眸(ひとみ)を不審と据(す)えると白墨の相々傘(あいあいがさ)が映(うつ)る。それほどの浅い夜を、昼から引っ越して来た霞(かすみ)が立て籠(こ)める。行く人も来る人も何となく要領を得ぬ。逃れば靄(もや)のなか、出(いず)れば月の世界である。小野さんは夢のように歩(ほ)を移して来た。として独(ひと)り行くと云う句に似ている。
 実は夕食(ゆうめし)もまだ食わない。いつもなら通りへ出ると、すぐ西洋料理へでも飛び込む料簡(りょうけん)で、得意な襞(ひだ)の正しい洋袴を、誇り顔に運ぶはずである。今宵(こよい)はいつまで立っても腹も減らない。牛乳(ミルク)さえ飲む気にならん。陽気は暖か過ぎる。胃は重い。引く足は千鳥にはならんが、確(しか)と踏答(ふみごた)えがないような心持である。そと卸(おろ)すせいかも知れぬ。さればとて、こつりと大地へ当てる気にはならん。巡査のようにあるけたなら世に朧は要(い)らぬ。次に心配は要らぬ。巡査だから、ああも歩ける。小野さんには――ことに今夜の小野さんには――巡査の真似は出来ない。
 なぜこう気が弱いだろう――小野さんは考えながら、ふらふら歩いている。――なぜこう気が弱いだろう。頭脳も人には負けぬ。学問も級友の倍はある。挙止動作から衣服(きもの)の着こなし方に至って、ことごとく粋(すい)を尽くしていると自信している。ただ気が弱い。気が弱いために損をする。損をするだけならいいが乗(の)っ引(ぴ)きならぬ羽目(はめ)に陥(おち)る。水に溺(おぼ)れるものは水を蹴(け)ると何かの本にあった。背に腹は替えられぬ今の場合、と諦(あきら)めて蹴ってしまえばそれまでである。が……
 女の話し声がする。人影は二つ、路の向う側をこちらへ近づいて来る。吾妻下駄(あずまげた)と駒下駄の音が調子を揃(そろ)えて生温(なまぬる)く宵を刻んで寛(ゆたか)なるなかに、話し声は聞える。
「洋灯(ランプ)の台を買って来て下さったでしょうか」と一人が云う。「そうさね」と一人が応(こた)える。「今頃は来ていらっしゃるかも知れませんよ」と前の声がまた云う。「どうだか」と後(あと)の声がまた応(こた)える。「でも買って行くとおっしゃったんでしょう」と押す。「ああ。――何だか暖(あった)か過ぎる晩だこと」と逃げる。「御湯のせいでござんすよ。薬湯は温(あった)まりますから」と説明する。


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