ただ破談を申し込むのと、破談を申し込みながら、申し込んだ後を奇麗に片づけるのとは別才である。落葉を振うものは必ずしも庭を掃く人とは限らない。浅井君はたとい内裏拝観の際でも落葉を振いおとす事をあえてする無遠慮な男である。と共に、たとい内裏拝観の際でも一塵を掃う事を解せざるほどに無責任の男である。浅井君は浮ぶ術を心得ずして、水に潜る度胸者である。否潜るときに、浮ぶ術が必要であると考えつけぬ豪傑である。ただ引受ける。やって見ようと云う気で、何でも引き受ける。それだけである。善悪、理非、軽重、結果を度外に置いて事物を考え得るならば、浅井君は他意なき善人である。
それほどの事を知らぬ小野さんではない。知って依頼するのはただ破談を申し込めばそれで構わんと見限をつけたからである。先方で苦状を云えば逃げる気である。逃げられなくても、そのうち向うから泣寝入にせねばならぬような準備をととのえてある。小野さんは明日藤尾と大森へ遊びに行く約束がある。――大森から帰ったあとならば大抵な事が露見しても、藤尾と関係を絶つ訳には行かぬだろう。そこで井上へは約束通り物質的の補助をする。
こう思い定めている小野さんは、浅井君が快よく依頼に応じた時、まず片荷だけ卸したなと思った。
「こう日が照ると、麦の香が鼻の先へ浮いてくるようだね」と小野さんの話頭はようやく自然に触れた。
「香がするかの。僕にはいっこうにおわんが」と浅井君は丸い鼻をふんふんと云わしたが、
「時に君はやはりあのハムレットの家へ行くのか」と聞く。
「甲野の家かい。まだ行っている。今日もこれから行くんだ」と何気なく云う。
「この間京都へ行ったそうじゃな。もう帰ったか。ちと麦の香でも嗅いで来たか知らんて。――つまらんのう、あんな人間は。何だか陰気くさい顔ばかりしているじゃないか」
「そうさね」
「ああ云う人間は早く死んでくれる方が好え。だいぶ財産があるか」
「あるようだね」
「あの親類の人はどうした。学校で時々顔を見たが」
「宗近かい」
「そうそう。あの男の所へ二三日中に行こうと思っとる」
小野さんは突然留った。
虞美人草 十七 (6)
日期:2021-05-25 23:52 点击:285
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