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虞美人草 十七 (7)
日期:2021-05-25 23:52  点击:280

「何しに」
「口を頼みにさ。できるだけ運動して置かんと駄目だからな」
「だって、宗近だって外交官の試験に及第しないで困ってるところだよ。頼んだってしようがない」
「なに構わん。話に行って見る」
 小野さんは眼を地面の上へ(おろ)して、二三間は無言で来た。
「君、先生のところへはいつ行ってくれる」
「今夜か明日(あした)の朝行ってやる」
「そうか」
 麦畑を折れると、杉の木陰(こかげ)のだらだら坂になる。二人は前後して坂を下りた。言葉を交すほどの(いとま)もない。下り切って(まばら)な杉垣を、肩を並べて通り越すとき、小野さんは云った。――
「君もし宗近へ行ったらね。井上先生の事は話さずに置いてくれたまえ」
「話しゃせん」
「いえ、本当に」
「ハハハハ大変(はじ)かんどるの。構わんじゃないか」
「少し困る事があるんだから、是非……」
「好し、話しゃせん」
 小野さんははなはだ心元(こころもと)なく思った。半分ほどは今頼んだ事を取り返したく思った。
 四つ角で浅井君に別れた小野さんは、安からぬ胸を運んで甲野の(やしき)まで来る。藤尾(ふじお)の部屋へ這入(はい)って十五分ほど過ぎた頃、宗近君の姿は甲野さんの書斎の戸口に立った。
「おい」
 甲野さんは(もと)の椅子に、故の通りに腰を掛けて、故のごとくに幾何(きか)模様を図案している。丸に()(うろこ)はとくに出来上った。
 おいと呼ばれた時、首を上げる。驚いたと云わんよりは、激したと云わんよりは、(おく)したと云わんよりは、様子ぶったと云わんよりはむしろ(はる)かに簡単な上げ方である。したがって哲学的である。
「君か」と云う。
 宗近君はつかつかと洋卓(テエブル)(かど)まで進んで来たが、いきなり太い眉に八の字を寄せて、
「こりゃ空気が悪い。毒だ。少し()けよう」と上下(うえした)栓釘(ボールト)を抜き放って、真中の円鈕(ノッブ)を握るや否や、正面の仏蘭西窓(フランスまど)を、(ゆか)を掃うごとく、一文字に開いた。(へや)の中には、庭前に芽ぐむ芝生(しばふ)の緑と共に、広い春が吹き込んで来る。


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